細胞を培養するためには、温度や湿度、ガス濃度などの環境を適切に整え、その状態を維持する必要があります。
こうした環境を維持するインキュベーターは、細胞培養の現場では欠かせない存在です。
しかし、単に保温や保湿を行うだけなら、発泡スチロールやクーラーボックスなどの容器でもよさそうなものです。
パン作りに使われるオーブンレンジの発酵モードや、低温環境であれば冷蔵庫でも対応できそうですよね。
それなのに何故、インキュベーターが必要なのか?
今回はインキュベーターが必要とされる理由を紐解いていきましょう。
インキュベーターは動物細胞や幹細胞、胚(受精卵)などの培養に必要な、温度・湿度・二酸化炭素(CO₂)などのガス濃度をはじめとする環境を安定して保つことができる装置です。その形状や大きさは、用途や環境によって非常に多様です。
インキュベーターの大きさと種類
インキュベーターのサイズは、手のひらサイズの簡易型から、数メートルに及ぶ大型の装置までさまざまです。たとえば、顕微鏡で観察しながら細胞を培養するためのステージ型インキュベーターは、顕微鏡全体をカバーするタイプ*1から、顕微鏡の観察ステージ上に設置できる小型のもの*2まであります(Gordon H., Nature, 1964; 202:1035-1036 , Talebipour A. et al., Sci Rep, 2024; 14(1): 3418)。
標準的なインキュベーターは、容量が30~170リットル程度で、外見は小型冷蔵庫や大型電子レンジに似ています。細胞培養のスケールや研究室・実験室のスペースに合わせて選ばれます。
*1: GORDON HP. AN ‘AIR WALL’ INCUBATOR FOR MICROSCOPY. Nature. 1964;202:1035-1036.
インキュベーターの機能
インキュベーターは、どのような機能を持つ装置なのでしょうか?
簡単に言えば、インキュベーターとは「細胞や微生物などの生きた試料を育てたり増やしたりするための環境を整え、長時間にわたって維持するための装置」です。
より専門的に表現すると、「細胞や微生物の培養に必要な温度・湿度・二酸化炭素(CO₂)といったガス濃度などの環境条件を、電気エネルギーを用いて自動的に制御し、安定状態を長期間保持できる装置」*1と定義することができます。
このような精密な環境制御は、家庭用冷蔵庫やクーラーボックス、簡易的な保温容器(例:発泡スチロール箱)では再現できません。細胞の増殖や分化には、わずかな温度変化やCO₂濃度の乱れでも影響を受けるため、インキュベーターのように専用に設計された培養装置が不可欠なのです。
インキュベーターの基本構造
多くのインキュベーターは箱型構造をしており、以下のような部位で構成されています。
またインキュベーターによっては外扉と内扉が一つになったものもあります。
外扉:外部と装置内部を仕切る扉。日常的な開閉に使用します。
内扉:外扉を開けた内側にある透明または半透明の扉で、急激な温度・CO₂濃度の変動を防ぐ役割があります。
庫内(チャンバー):実際に細胞を培養するスペース。内部は温度とガス濃度、湿度などが厳密に制御されています。
この庫内には、機種によっては高さ調整可能な棚板が設置されており、細胞培養用のフラスコ、ディッシュ、マルチウェルプレートなど多様な培養容器に対応可能です。
さらに、加湿水を入れたバットやタンクを設置することで、適切な湿度環境が維持されます。
また、近年では、チャンバーが個別に分割されているモデルや、引き出し式・モジュール型の設計も登場しており、作業の効率化や培養容器の取り違えなどのリスク低減が図られています。
インキュベーターは、温度・湿度・ガス濃度を厳密に制御できることから、さまざまな生物学的・医薬的研究や製造工程で用いられています。ここでは、代表的な使用目的とその利用例を見てみましょう。
(培養中のマウス受精卵:たった一つの細胞が次々に分裂していく様子がわかります)
目的:ヒトや動物の細胞、あるいは有用な酵母や真菌などの微生物を長期間にわたり安定して育てるために使用します。
利用例:医学研究での幹細胞や癌細胞の培養、人工授精など
(青色の光を当てると緑色の光を放つ緑色蛍光タンパク質GFPを発現している細胞の顕微鏡観察)
目的:遺伝子を取りこませた細胞や微生物からタンパク質やポリペプチド(アミノ酸がつながったもの)などを作らせる。
利用例:ワクチンの開発やバイオ医薬品の生産、細胞療法や遺伝子治療の研究など
(再生医療で利用されるiPS細胞が増殖していく様子)
目的:人工組織や臓器の構築に必要な細胞を培養して数を増やす。また特殊な処理を行って、細胞に特定の機能を持たせる。
利用例:皮ふや軟骨の再生、臓器の再構築の研究など
目的:医薬品や化粧品などの効果や安定性、無菌性などを確認する。
利用例:薬効・薬理試験や安全性試験や微生物汚染試験、化学物質に対する毒性評価試験など
インキュベーターを用いた研究や培養で得られたものは、私たちの身の回りにある医療や医薬品、食品や化粧品など様々なものと深く関わりがあるといえます。
これらの研究や試験、開発技術は、私たちの便利で安全な生活のため、インキュベーターは欠かせないものになっていますね。
様々な目的で用いられるインキュベーターですが、今回は細胞培養に焦点を当ててみましょう。
細胞培養でのインキュベーターに求められる機能とその重要性を以下にまとめました。
細胞の成長や増殖には、最適な環境が必要です。
温度、湿度、二酸化炭素(CO₂)濃度などの条件を手動で管理することは非常に困難です。
インキュベーターはこれらの環境条件を自動的に制御し、一定の状態を長期間維持することができます。
これにより、毎回同じような結果が出やすくなり、細胞を使った実験の信頼性(再現性)が高まります。
自然の環境では難しい条件も、インキュベーターを使えば人工的に整えることができるため、細胞がより早く、安定して成長しやすくなります。
さらに、たくさんの試料(サンプル)を同時に育てられるので、研究や実験のスピードもアップします。
その結果、作業の効率が良くなり、時間やコストの節約にもつながります。
医療や新しい薬をつくる研究(創薬)は、温度や湿度、ガス濃度などの環境のわずかな差が結果に大きく影響することがあります。
インキュベーターは、たとえば温度を0.1℃単位の細かさで調整することができ、その環境を維持することができます。他にも二酸化炭素(CO₂)や酸素(O₂)といったガスの濃度なども正確にコントロールできるため、様々な条件での細胞の培養や実験ができます。
細胞の培養では、酵母やカビなどの微生物が入り込んでしまうと、ほとんどの場合で細胞がうまく育たず、研究や実験が失敗となります。
こうしたトラブルを防ぐために、インキュベーターは外部からのホコリや汚れが入りにくい、外部とは切り離された清潔な環境を作り出しています。さらに、定期的にインキュベーターの中を加熱して菌を滅ぼす(滅菌)ことができる機種もあり、汚れや菌などから細胞を守る工夫がされています。
複数の条件下での比較実験や長期的な培養において、培養環境の一貫性は非常に重要です。
インキュベーターは同じ装置の中で違う条件の実験を並行して進めることできるのも、大きな利点です。
これにより、比較実験や長期にわたる研究でも、ばらつきの少ない安定した環境を維持することができ、結果の信頼性(再現性)を高めることができます。
このように、インキュベーターは、細胞が安心して成長できる「あたたかくて快適な細胞の家」として機能し、研究や実験において重要な役割を果たしています。
インキュベーターは、細胞や微生物を育てるために必要な温度・湿度・二酸化炭素(CO₂)といったガス濃度などを自動でコントロールし、長期間にわたって安定した環境を保つための装置です。
このような環境を正確に整えることで、細胞が健康に成長しやすくなり、医療やバイオテクノロジーの研究で求められる再現性や効率性の高い実験ができるようになります。細胞が毎回同じように育つことは、正しい結果を得るうえでとても重要なのです。
インキュベーターを活用することで、次のような利点が得られます。
・環境の安定化
温度や湿度、ガス濃度のわずかな変動や、外部からの汚染(ホコリや微生物)から細胞を守り、安定した培養結果を実現します。
・最適な成長環境の提供
細胞の種類や実験の目的に応じて、必要な温度、湿度、二酸化炭素(CO₂)などのガス濃度を自動的に調整し、細胞や微生物の正常な成長を促進します。
・長期培養の実現
培養の環境の変化を最小限に抑えることで、長期間にわたる安定した培養を可能にし、研究や実験の信頼性(再現性)を高めます。
・複数サンプルの同時管理
一度に多くのサンプル(試料)を同じ条件下で管理できるため、作業の効率化とコスト削減につなげることができます。
・再現性の向上
培養するときの環境条件を一定に保つことで、実験のたびに同じような結果が得られやすくなり、データの信頼性(再現性)が高まります。
・効率性の向上
細胞がより早く、安定して増殖できるため、時間の短縮と高品質な結果が期待できます。
・研究・医療現場での必須ツール
再生医療やがん克服のための創薬研究、画期的な医薬品の開発など、先端科学の多くの分野で欠かせないツールとなっています。
以上のように、インキュベーターは医療やバイオの世界で活躍する、まさに”再現性と効率性の二刀流”を実現するためのキープレイヤーです。
細胞が同じように育ち、質の高い結果を生むために、インキュベーターはなくてはならない存在と言えるでしょう。