インキュベーターのpH調整って何?装置の仕組みを詳しく解説!

培地のpHはCO2とNaHCO3によって安定化されています。

細胞の培養に欠かせない「インキュベーター」。

インキュベーターは、細胞が元気に育つための快適な「細胞のためのあたたかくて快適な家」のような装置です。

参考:インキュベーターとは?

その中で、培養容器が「部屋」となり、培地が細胞のための「ごはん」となって、細胞がすくすく成長するための理想的な環境を整えます。

インキュベーターは温度、湿度、二酸化炭素(CO₂)濃度などを最適な状態に保ち、細胞にとって最高の住まいを提供します。

その中でも、今回の記事で注目するのは、「pHの調整」。

実は細胞の「ごはん」となる培地は、細胞が快適に過ごせるように、特定のpHに保たれていることが非常に重要です。

細胞が元気に育つかどうかはpH次第のこともあります。

細胞はとてもデリケートな存在で、pHが少しでもズレると増殖がうまくいかなくなったり、ストレスを感じて異常な反応を起こすことがあります。

細胞にとって最適なpHは、もともと存在していた体内環境に近いpHであることが多く、その値はおおよそ 7.2〜7.4 に保たれています。

では、インキュベーターの中では、どうやってpHが一定に保たれているのでしょうか? そのカギを握るのが、インキュベーターから送り込まれる二酸化炭素(CO₂)ガスと、培地に含まれる緩衝剤「炭酸水素ナトリウム(NaHCO₃)の働きです。

インキュベーターの中では培地のpHが安定化するよう、常にCO2濃度が監視されています。

この記事では、インキュベーターでのpH調整の仕組みを中心に、「CO₂インキュベーター」と「マルチガスインキュベーター」の違いやそれぞれの活用シーンについて、わかりやすく解説していきます。

CO₂インキュベーターとは?

インキュベーターではCO2(二酸化炭素)濃度を制御することができます。

CO₂インキュベーターは、チャンバー(庫内)の二酸化炭素の濃度を一定に保つことで、培地のpHを安定させます(一般的には5%)。

主にインキュベーターからの二酸化炭素と培地の中に含まれる重炭酸イオンが培地のpHを安定化しています。

これは、多くの培地に含まれている炭酸水素ナトリウム(NaHCO₃ 重炭酸ナトリウムや重曹とも呼ばれます)との化学反応によるもの。

代表的な培地としては、DMEMやRPMI-1640などがあります。

インキュベーターからの二酸化炭素(CO2炭酸水素ナトリウム(NaHCO3の組み合わせから起きる化学反応により、pH7.2〜7.4という、生体に近い環境が保たれる仕組みです。

メリット

  • 汎用性が高い
    多くの細胞培養用培地は、二酸化炭素(CO2炭酸水素ナトリウム(NaHCO3との化学反応でpHを安定化させています。
    そのためCO₂インキュベーターは標準的な細胞培養に広く対応できる汎用性の高い装置であり、ほとんどの研究室で利用されています。
  • コストパフォーマンスに優れる
    制御するガスがCO₂のみであるため、本体価格が比較的安価です。
    また、マルチガスインキュベーターと比べると、センサーや構造をシンプルにできることから、導入しやすく維持費も抑えられます。
  • メンテナンスしやすい
    必要なガスはCO₂ボンベだけなので、接続・交換も簡単です。
    また、CO₂濃度の校正もシンプルなため、日常のメンテナンスがしやすいのも大きな魅力です。

デメリット

  • 酸素濃度は調整できない
    体内の生理的な状態、特に低酸素環境を忠実に再現する必要がある研究には不向きです。
    CO2インキュベーターは、大気中の酸素(O2濃度に近い環境下での培養を前提としており、細胞が体内で経験するような低酸素ストレスやそれに伴う応答を詳細に再現することは困難です。

こんなシーンにおすすめ

  • 標準的な細胞株(例:HeLa、293T、CHOなど)の細胞培養・維持
    最も一般的な利用方法です。
    安定したCO2濃度温度湿度を提供し、接着細胞や浮遊細胞の継代や維持に最適です。
    ルーチンワークとしての細胞のストック維持や、次の実験への準備段階で利用されます。
  • 大学や企業での教育・研修
    細胞培養の基礎を学ぶための実習や、新しい研究者が技術を習得する際の最初のステップとして非常に有効です。
    インキュベーター自体の操作やメンテナンスが比較的シンプルで、基本的な培養環境の理解を深めるのに役立ちます。

マルチガスインキュベーターとは?

マルチガスインキュベーターではCO2(二酸化炭素)とO2(酸素)濃度を制御することができます。

マルチガスインキュベーターは、CO₂(二酸化炭素)に加えてO₂(酸素)のガス濃度も制御できます。

その最大の特長は、酸素濃度を自由に設定できる点にあります。

特に低酸素環境を再現する際には、窒素(N₂)ガスを庫内に送り込むことで酸素濃度を効果的に下げます。

体内の酸素濃度は大気(呼気)中よりも低く、臓器によって様々です。

低酸素濃度とする時にはN2(窒素)ガスを送り込むことでO2濃度を下げます。こうすることで、たとえば、幹細胞の研究では2〜5%の低酸素状態が「ニッチ環境」として知られ、より生体に近いかたちで分化や増殖が促進されるといった知見もあります。

逆に高酸素濃度とする時にはO2ガスを送り込みます。こうすることで、細胞の代謝やタンパク質生産が活発になる場合があります。酸素濃度を培養のステージや細胞の密度に合わせて高めにし、細胞の健全な増殖と高い生産性を実現できます。

スフェロイド(細胞凝集塊)の培養では中心部の酸欠を防ぐため高酸素濃度とすることも。
ただし酸素による酸化ストレスの影響も考慮する必要があります。

メリット

  • 生理的な低酸素環境の再現が可能
    CO₂に加えてO₂濃度も精密に制御できるため、細胞が生体内で遭遇する多様な酸素濃度の環境を忠実に再現できます。
    これにより、がん研究における腫瘍微小環境や、幹細胞のニッチ環境といった、より生体内に近づけた詳しい細胞応答を調べることができます。
  • 幅広い研究・応用分野に対応
    O2濃度を自在に設定できるため、細胞の増殖・分化、遺伝子発現、代謝、そして薬剤応答など、O2が関わる多岐にわたる研究分野で利用できます。
  • 培養結果の信頼性が向上
    酸素濃度のわずかな変化が影響するような、精密な研究に強みがあります。そのため、より再現性の高い実験結果や、in vivo(生体内)で得られたデータと整合性のとれた知見を得やすくなります。

デメリット

  • 導入コストが高額になりやすい
    O2濃度を制御するためのセンサーやガス制御システムが複雑になるため、インキュベーター本体の価格が高くなります。さらにN2O2濃度を制御するためのガスボンベなどの導入コストもかかります。
  • 維持・運用コストが高い
    CO₂ガスの他に、O2濃度を調整するためのN₂ガス(低酸素用)やO₂ガス(高酸素用)といった複数のガスボンベが必要となり、これらのガス消費量が増えるため、ランニングコストが高くなりがちです。
    また、より精密なセンサーの校正や定期的な部品交換など、メンテナンス費用も高くなる傾向があります。
  • 取扱いに注意が必要な場合がある
    O2濃度を測定するセンサーの中には、インキュベーターのチャンバー内に湿度があるときに電源が切れると故障するリスクが高まるものがあります。
    またチャンバー内の容量が大きくなるほど、また低酸素濃度とするほどN2ガス、高酸素濃度とするほどO₂ガスの消費量が増えますので、それぞれのガス残量に注意する必要があります。

こんなシーンにおすすめ

  • 生体内低酸素環境の再現と解析(腫瘍研究編)
    固形がん内部では、急速な増殖と血管新生の不均衡により、酸素が乏しい低酸素環境(hypoxia)が形成されます。
    マルチガスインキュベーターは、このような環境を忠実に再現し、様々な現象を詳細に解析するために不可欠です。
  • 生体内低酸素環境の再現と解析(幹細胞研究編)
    胚性幹細胞(ES細胞)や人工多能性幹細胞(iPS細胞)など、多くの幹細胞は生体内では比較的低酸素なニッチに存在しています。
    マルチガスインキュベーターで低酸素環境を再現することで、幹細胞の未分化性維持、増殖、分化誘導における酸素濃度の影響を研究できます。
  • 生理機能に近い細胞応答の評価
    生体内では、組織や臓器によって酸素濃度が異なります。
    マルチガスインキュベーターは、ターゲットとする細胞が生体内で置かれている生理的な酸素濃度を再現することで、より生体に近い応答を評価することを可能にします。

CO₂インキュベーターとマルチガスインキュベーターを比較すると?

比較項目CO₂インキュベーターマルチガスインキュベーター
pH調整CO₂濃度とNaHCO₃濃度CO₂濃度+NaHCO₃濃度
酸素濃度の調整不可
対応する細胞種一般的な細胞株
(酸素濃度制御を必要としない場合)
胚(受精卵)、幹細胞、初代細胞、がん細胞など
(酸素濃度制御を必要とする細胞)
コスト
本体が低価格+少ないボンベ種類

本体高コスト+ボンベが複数必要
メンテナンス性比較的簡単やや複雑(ガス設定など)
実験の自由度標準条件に限定されがち高度な設計にも対応可能

どちらを選ぶべき?研究の目的と環境から考える

最適なインキュベーターを選ぶポイントは、「どんな細胞を育てて、何を明らかにしたいのか」です。

二酸化炭素濃度の制御だけで良いか?酸素濃度の制御も必要なのか?悩んでしまいますね。

  • 日常的に細胞株を培養する、あるいは標準的な条件での実験が中心多いのであれば、CO₂インキュベーターが適しています。
    その手軽さと安定性は、ルーチンワークにおいて大きなメリットとなるでしょう。
  • 一方、細胞分化の細かい過程を追いたい、腫瘍の低酸素環境を再現したい、などよりリアルな生理的な低酸素状態を再現したい研究を目指すなら、マルチガスインキュベーターがその力を最大限に発揮します。

インキュベーターを選定する際は、以下の点もぜひ参考にしてください。

  • 研究対象の細胞が酸素濃度にどれだけ敏感か?
    おこないたい実験では酸素濃度の影響を受けやすいかどうかを含めて確認しましょう。
  • 予算や設備の計画
    ガス供給や日々のメンテナンスにかかる費用や、ガス濃度校正の手間も考慮に入れることが重要です。
  • 操作にあたるスタッフの技術と時間的リソース
    インキュベーターの設定や、複数のガス管理に対応できるスキルや時間が確保できるかも考慮しましょう。

これらのポイントを踏まえることで、あなたの研究を最大限にサポートする最適なインキュベーターが見つかるはずです。

おわりに:あなたの研究を支える1台を

細胞は、とても繊細です。

その環境づくりを担うインキュベーターの選び方次第で、実験結果の再現性や成功率にも大きく影響が出てきます。

CO₂インキュベーターも、マルチガスインキュベーターも、それぞれに強みがあります。

重要なのは「どちらが優れているか」ではなく、「あなたのいまの研究に最も合っているかどうか」を基準にして選ぶことです。

細胞や実験データばかりでなく自分の研究に合った装置を見極めることも重要です。

装置のスペックや価格だけでなく、実際の使用場面や日々の維持管理のしやすさまで含めて、じっくりと比較・検討してみてください。

納得のいく機器選定につながります。

もしインキュベーター選びに迷ったときは、メーカーや販売店といった専門業者に相談するのも一つの方法です。

あなたの研究内容にふさわしい1台をご提案します。

専門業者の中には細胞培養に詳しい研究者が在籍していたり、そのようなスタッフがバックアップしていたりするケースもあります。

インキュベーターメーカーには様々な専門家が在籍しています

メーカー内で研究業務に就く者も居ます

細胞を使って様々な研究をおこないます

そうすることで、「実はマルチガスインキュベーターが必要だった」といった具体的なアドバイスや、機器の取扱いに関する注意点なども聞けるかもしれません。

万一のトラブル発生時に迅速で的確な対応ができる信頼性の高いメーカーを選べるだけでなく、培養設備全体の装置レイアウトや運用までを視野に入れた総合的な提案を受けられる可能性もあります。

あなたの研究に最適な一台を見つけることが、素晴らしい成果へとつながる第一歩となるでしょう。

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この記事を書いた人
株式会社アステックでiPS細胞や動物の胚(受精卵)を使って、「こんなの見たことない!」と言われるような新しい細胞培養システムを日々開発中。博士(学術)と技術士(生物工学)の資格持ちだが、肩書きよりも実験とアイデア勝負が好き。 趣味は自転車、料理、ジョギング。いつか宇宙での細胞培養を目指して、日々の業務では神経細胞を、休日は自転車競技で筋肉細胞を鍛えている研究員。