インキュベーター庫内のお手入れ・滅菌編

細胞培養において、インキュベーターの衛生管理はとても重要です。

培養細胞は目に見えない微生物(カビ・酵母・細菌類)の影響を受けやすく、ほんの少しの汚染であっても実験結果を大きく左右します。

微生物によるコンタミネーション(汚染。コンタミ)が発生すると、貴重な細胞が失われるだけでなく、長期にわたる研究成果そのものを損なう危険性があります。

実際、私の学生時代の研究室でもインキュベーター内で微生物が大量発生し、実験計画に大幅な遅れが生じてしまい、卒業を危ぶまれた同期がいました(幸いにも最終的には修了できましたが)。

コンタミは研究生命を脅かす一大事です

顕微鏡の先に広がる汚染された世界

特にカビや細菌は、一度繁殖すると庫内を循環する空気の流れに乗って周囲へ拡散しやすく、他の試料や機材にまで影響を及ぼします。

加湿水の汚染には気を付けましょう

庫内の空気の流れに乗って微生物は浮遊します

したがって、コンタミ発生後での対処よりも、日常的な予防と衛生管理の徹底が最も効果的な対策となります。

乾熱滅菌などで庫内の微生物をほぼ完全に無くすことが大前提です

滅菌後の適切なメンテナンスはコンタミ発生のリスクを抑えます

本記事では、インキュベーターの効果的なメンテナンス(滅菌や清掃方法など)と、日常的に心がけたい衛生管理のポイントをご紹介します。

1. ダイレクトヒート型インキュベーターでのメンテナンス

(庫内全体をヒーターで加温するタイプ)

ダイレクトヒート型は、庫内の壁面に内蔵されたヒーターでチャンバー全体を加温する構造をしています。

庫内に向かって直接ヒーターが存在(内蔵されています)

ダイレクトヒート型は温度復帰が早い特徴があります

このタイプのインキュベーターは、庫内の温度上昇が早く、温度の均一性にも優れています。

また多くの機種に乾熱滅菌機能(例:160℃で任意の時間設定など)が搭載されており、以下のような点で特に優れています。

  • 高温乾熱により、多くの一般的な細菌の他、酵母やカビ(真菌類)の胞子まで死滅可能
  • 細かな隙間や空気の流れに沿って熱が行き渡るため、庫内全体をまんべんなく滅菌できる

乾熱滅菌でのポイント

  • 乾熱滅菌前に、熱に弱い部品(センサー、ファン、フィルターなど)が取り外し可能かを確認し、必要に応じて外しておきましょう。
  • 乾熱滅菌前に庫内に水分が無いこと(特に加湿水。まったく無いこと)を確認してください。
  • 滅菌後は、十分に冷却されてから使用を再開すること(サンプルを入れる前に庫内温度を安定させる)。
  • 滅菌中はインキュベーターが使えないため、週末や連休などを活用し、計画的にスケジュールを組むことが大切です。

庫内は高温になるためフィルターなどは取り外してください

加湿水も完全に無くした上で乾熱滅菌してください

なお、この「乾熱滅菌」は、ダイレクトヒート型でしか行えない方法です。

ウォータージャケット型では装置の構造上、他の方法を選ぶ必要があります。

2. ウォータージャケット型インキュベーターでのメンテナンス

(庫内を囲む水層で温度を安定させるタイプ)

ウォータージャケット型は、チャンバーの外側を温水が取り囲む構造で、温度変動が極めて少なく、長時間安定した培養条件が保てるという特徴があります。

水を加温することで間接的に庫内を温めます

ウォータージャケット型は保温性に優れています

しかし、水が常時存在しているため乾熱滅菌機能を設定することができず、清掃や薬剤を用いた殺菌や除菌作業がメインとなります。

ウォータージャケット型のメンテナンスでのポイント

  • 定期的に庫内を70%エタノールで拭き取ることで殺菌(除菌)*1, *2
  • 月1回は、棚板やセンサー保護カバーなど取り外し可能な部品を洗浄*3
  • 加湿水を入れるパンや棚板など高温に耐えられる部品は乾熱滅菌
  • 滅菌した超純水などを加湿水に使用*4

*1:ただし過剰なエタノール(VOC: 揮発性有機化合物の一種)の使用は、培養に影響を及ぼす可能性があります。

*2:Agarwal N, et al. Volatile organic compounds and good laboratory practices in the in vitro fertilization laboratory: the important parameters for successful outcome in extended culture. J Assist Reprod Genet. 2017;34(8):999-1006.

*3:装置のメンテナンス方法は、必ず取扱説明書に従っておこなってください。

*4:加湿水は補充よりも全量交換することを推奨します(バイオフィルムの形成を防ぐため)。

3. 乾熱滅菌が使えない機種でのメンテナンス

一部のインキュベーター(乾熱滅菌機能のないダイレクトヒート型や、ウォータージャケット型など)では、薬剤による滅菌が効果的な選択肢となります。

● 過酸化水素(H2O2)による滅菌

過酸化水素は、強力な酸化作用で微生物を死滅させる薬剤で以下のような特徴があります。

(1)揮発性が高く、使用後の残留が少ない点*1

(2)専用のミスト生成装置を使ってチャンバー内に噴霧する方法が一般的*2

(3)高温に耐えられる芽胞やウィルスに対しても効果あり

*1:使用後は換気をしっかりとおこなってください。

*2:チャンバー内にある金属部品や電子機器、センサーなどが腐食する恐れがありますのでご注意ください。

● 過酢酸(PAA, PerAcetic Acid: CH3COOH)による滅菌

過酢酸も強力な殺菌力を持つ薬剤で以下のような特徴があります。

(1)高温に耐えられる芽胞を含む広範囲の微生物、ウィルスに対して効果がある。

(2)空間の湿度が高くなると結露が発生し、金属腐食へのリスクが高まる。*1

(3)残留毒性はほぼ無いが、刺激臭が残る場合がある。*2

*1:過酢酸噴霧装置からのミスト径や、空間湿度を調整することでリスクを低減することが可能です。

*2:酢酸臭を除去する専用のガス除去装置や、残留臭を抑えた製品の使用を推奨します。

注意点

ホルムアルデヒドやエチレンオキサイドなど、さらに強力な殺菌作用を持つ薬剤もありますが、毒性や腐食性、残存性が高いことからインキュベーター内では一般的に使用されません。

ラボ内の安全管理の観点からも、これらの使用は避けましょう。

4. UV殺菌機能付きインキュベーターの場合

(紫外線によって微生物を死滅させるタイプ)

UVランプ(通常254nm)で庫内を照射し、微生物のDNAを損傷させて殺菌(除菌)する方式です。

高温を使わない点が特長です。

使用時の注意点

  • 紫外線は直接照射されている部分にしか効果がないため、影になる箇所は別途作業による殺菌(除菌)が必要です。
  • UVランプの出力は時間とともに低下します。メーカーの推奨する期間を参照して定期的に交換しましょう。
  • UVはプラスチックを劣化させますので、ディッシュやTフラスコなどに直接照射しないようにしましょう。

5. 加湿水への抗カビ・抗菌剤の添加

加湿水に専用の防カビ剤や抗菌剤を加えることで、日常的な管理がより安心になります。

現在では細胞培養に影響が出にくいよう設計された製品が多く、庫内の培養環境を清潔に保つための有効な手段です。*1

希釈して加湿水に直接添加するタイプの他に、加湿水に置くだけで防カビ・抗菌効果が得られる製品も登場しています。

加湿水に加えるものとしては、銀イオンを有効成分とするものが主流となっています。

*1:過去には微量のSDS(ドデシル硫酸ナトリウム)を加湿水に加えることもありましたが、SDSには毒性があるため、現在では加湿水の抗菌・抗カビ目的にはほとんど使用されていません。

加湿水用の抗カビ・抗菌剤を選ぶポイント

以下の点に注意して製品を選びましょう。

(1)長期間・複数回に渡って効果を持続できるもの。
製品によっては2回目以降の使用では有効成分(銀イオンなど)濃度が少ない場合がありますのでご注意ください。

製品によっては加湿水への設置1回目と2回目で有効成分の濃度が減少するものがあります

(2)効果のある微生物を複数種に渡って検証したもの。

どんな微生物に効果があったのかを第三者機関で評価したデータを公開している製品があります。

信頼ある第三者機関で評価された製品を選びましょう

ある製品のカビに対する増殖阻害効果の一例

ある製品の酵母に対する増殖阻害効果の一例

ある製品の大腸菌に対する増殖阻害効果の一例

滅菌処理や清掃作業のルーティン化のすすめ

細胞培養の成功は、日々の環境管理にかかっているといっても過言ではありません。

インキュベーターの滅菌や清掃は、一度やったら終わりではなく、「地道なルーティンの積み重ね」がもっとも効果的です。

また、「滅菌したからもう大丈夫」と油断せず、その後の使用時にも清潔な操作やメンテナンスを心がけることがとても大切です。

細かな水滴のふき取りや、インキュベーターを取扱い際に使用する手指の清潔さ(手袋の着用を推奨します)まで、意識を向けておくと安心です。

カレンダーやチェックリストでルール化しておくと、誰が作業してもムラが出にくく、トラブル予防にもつながります。

あなたのインキュベーターが、今日も清潔で、細胞にとって心地よい環境でありますように。

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この記事を書いた人
株式会社アステックでiPS細胞や動物の胚(受精卵)を使って、「こんなの見たことない!」と言われるような新しい細胞培養システムを日々開発中。博士(学術)と技術士(生物工学)の資格持ちだが、肩書きよりも実験とアイデア勝負が好き。 趣味は自転車、料理、ジョギング。いつか宇宙での細胞培養を目指して、日々の業務では神経細胞を、休日は自転車競技で筋肉細胞を鍛えている研究員。