細胞培養は、見た目以上にデリケートな作業です。
インキュベーター庫内のわずかな温度変動やガス濃度の変化や、ホコリ・微生物などの混入、光や振動といった外的刺激が、細胞の生育やデータの再現性に大きな影響を与えることがあります。
環境ストレスを低減し、細胞のホメオスタシス(homeostasis, 恒常性*1)を維持し管理することが、コンタミネーション(汚染)(以降コンタミと表記)防止や実験の安定化につながります。
庫内の整理がコンタミ低減につながります。
培養中のiPS細胞
iPS細胞は環境変化に敏感です。
本稿では、庫内での工夫や設置環境の注意点、さらには日常管理のポイントまで、より安全で安心できる培養環境づくりのヒントを紹介します。
*1:ギリシャ語で「同一の状態」を意味する言葉が語源。外部環境の変化にかかわらず、体温、血糖値、血液成分など体内の状態を一定の安定した範囲に保つ生体機能を指します。
インキュベーターには二つの扉があり、内扉を開けた先が庫内(チャンバー)となり、この空間で細胞を培養します。
細胞培養に用いるTフラスコやディッシュなどの培養容器は、素手で触れず、必ず手袋を装着して取り扱ってください。
可能であれば、70%エタノールなどの消毒用アルコールによる消毒を推奨しますが、VOC(揮発性有機化合物)の使用が制限されている施設もあります。必ず各施設・実験室の規則に従って作業を行ってください*1。
内扉の内部で細胞を培養します。
重要な細胞はなるべく奥に置きましょう。
手前側は環境変化の影響を受けやすい場合があります。
この内扉を開け閉めするたび、庫外の空気の流入・庫内の空気の流出が起こります。
このとき、ドア付近は温度や湿度、CO₂濃度やO₂濃度の変化を最も強く受ける場所です。
また、空気中を漂っているホコリや微生物なども開口部から侵入しやすく、内扉の周辺ではコンタミのリスクが高い領域でもあります。
そのため、ディッシュやフラスコはできるだけ奥の方から順に配置するのが基本です。
庫内のどこでも同じ環境を維持できますが、扉開閉時のリスクを考えましょう。
頻繁に出し入れする資料は手前への配置で問題ありませんが、長期培養のサンプルは奥にまとめておくことで、より安定した環境を維持できます。
ちょっとした置き方の工夫で、環境変化による影響やコンタミの発生率を大きく下げることができるのです。
*1:消毒用アルコールについては「インキュベーターの正しいお手入れ~殺菌・除菌剤の選び方と注意点~」をご参照ください。
浮遊細胞や担体に固定化した接着細胞などを効率よく培養するために容器を振とうさせることがあります。その際、インキュベーター庫内に動力源となるシェーカーなどを設置する場合があります。
シェーカーによる振とう培養。
スターラーバー(撹拌子)を使うこともあります。
インペラ(撹拌翼)も利用されます。
実際の例として、凝集体となったiPS細胞では静置培養よりも振とう培養の方が細胞生存性が高く、また分化マーカーを多く発現することがあります*1。
しかし、シェーカーといった動力源はモーターなどの動作によって庫内の空気の流れを乱したり、微細な振動を生じさせる装置でもあります。
その結果、庫内に存在するホコリ(加湿水があり、かつ微生物が繁殖していた場合はその微生物も含みます)が舞いやすくなったり、庫内の温度分布が偏ったりして、周囲の培養サンプルに悪影響を及ぼす可能性があります。
やむを得ず同じインキュベーターを使用する場合は、シェーカーなどの動力源の上段に培養ディッシュを置くのが望ましいです。
上段であれば落下してくるるホコリの影響を受けにくくなるためです。
さらに、可能であれば振とう培養専用のインキュベーターを用意するのが最も安全で確実な方法です。
シェーカーの動きにより様々な影響が出る可能性があります。
シェーカー専用のインキュベーターを用意することを推奨します。
培地の蒸発を防ぐ目的で、インキュベーター内には高湿度を維持するための加湿バット(加湿トレイ、加湿皿とも)が設けられています。
しかしこの加湿バットは、常に加湿水が存在しており、温度も37℃と高く保たれる環境であるため、微生物が繁殖しやすく、コンタミの発生源となりやすい部位でもあります。
オートクレーブや濾過滅菌*1などの処理をおこなった加湿水は、最初は無菌状態であったとしても、内扉の開閉やディッシュ出し入れ作業によってカビや微生物などが落下すると、その加湿水の中で容易に繁殖してしまいます。
そのため、加湿バットは「湿度維持のために必要な部品」である一方、管理を怠ると培養環境全体の清浄性を損なうリスクを潜めているということを十分に認識しておく必要があります。
加湿水は滅菌処理されたものを使用します。
加湿水の注水は静かにおこなってください。
あれ?加湿水に何かホコリが?
ホコリの正体はカビでした。
こうして繁殖したカビや微生物などの一部が庫内の空気中に舞い上がり、他のサンプルに悪影響を及ぼす可能性があります
そのため、
といったルールを設けて、使用するメンバー全員が守ることが大切です。
また、冷蔵保存していた培地やバッファーなどの低温の試薬を庫内に入れると、インキュベーター内の温度分布にムラが生じることがあります。特に、冷たい試薬を急に庫内へ持ち込むなど温度差が大きい場合には、結露が発生しやすくなります。
すると…
結露が落ちてきてディッシュ表面に付着 ⇒ 水滴に触れた手指で培養作業 ⇒ 手指から水滴中の微生物が落下 ⇒ そしてコンタミへ
という流れが起きる可能性があります。
そのため、庫内に持ち込む物品の温度を含めた温度管理・運用(庫内に持ち込む物の温度)が重要です。
*1:微生物を通さない微細な孔径(0.22μmが一般的に用いられます)を持つフィルターを使用しておこなう滅菌処理です。
インキュベーターの庫内は清潔に保ちましょう。
特に棚板やドアパッキン部分、ハンドル部分には知らないうちに汗や皮脂などの手の汚れが付着することがあります。
内扉固定ハンドルの庫内側にカビのようなものが大量に
棚板を手で直に触ると微生物が繁殖する可能性が高まります
庫内を直接触れるのは危険です。おやめください。
グローブを着けていたとしても、汚れている箇所に接触していたらグローブを介してそれらに付着してしまい、そこからカビや細菌などの微生物が繁殖することもあります。
目安としてアルコールや専用の消毒液などでの拭き取り清掃を週1回、全体の分解清掃を1~数カ月に一度行うと安心です。
殺菌・消毒溶液による拭き取り清掃は適切な溶液を選んでください。
分解清掃で不明な点があればすぐにメーカーへご連絡ください。
また、培養を長期間続けるラボでは、過酢酸や過塩素酸などの化学薬品を使用する滅菌や、インキュベーター自身が持つ乾熱滅菌機能による滅菌を定期的におこなうことも効果的です。
庫内を高温状態にして滅菌します。
乾熱滅菌中の本体内部は高温となりますのでお気を付けください。
設置環境で特に注意すべき点の一つが、空調(エアコン)の風の影響です。
エアコンの吹き出し口が近い場所にインキュベーターを設置すると、扉の開閉時に冷風や温風が直接庫内へ流れ込むことで、ガス濃度や温度の急激な変化を引き起こして内部環境が不安定になります。
さらに、空調の風によって舞い上がっているホコリが開口部から流入してしまい、コンタミの原因にもなります。
また、空調の風が庫内に直接入らなくても、壁や機材などから回り込む気流や開放されたドアからの風により、インキュベーター本体表面に温度変化が生じることがあります。
特にガラス製であることが多い内扉は外部の温度変化の影響を受けやすく、庫内側と庫外側で温度差が生じ、その結果、庫内側に結露が発生しやすくなります。
このような現象は、培養条件の再現性や安定性を損なう原因となってしまいます。
内扉に冷たいエアコンの風を当てると庫内側が結露します。
外装であっても長時間当て続ければ結露を招く可能性があります。
そのため、インキュベーターを設置する際には、
といった点を意識し、庫内環境を安定させるための対策を講じることを推奨します。
天井埋込式の空調に備えられた風よけ板。
タイムラプスインキュベーターの上に設置された空調。
日光や蛍光灯の強い光が直接インキュベーターに当たっていると、内扉を開けた際に光が差し込む可能性があります。
その光によって培地成分が変化する場合があります。
特に培地に含まれるビタミンやアミノ酸は光による影響を受けやすいため、長時間光に当たると成分が変化してしまい、細胞が育ちにくくなります。
実際にビタミンの一種であるビタミンB2(リボフラビン)や葉酸などは光照射により活性化され、それによりアミノ酸が酸化されたり分解されたりすることで培地成分が変化し、細胞の成長に影響を及ぼすことが確認されています*1, *2。一方、ビタミンC(アスコルビン酸)などは光によって直接分解され、本来の機能が失われてしまいます。
また、一部の細胞は光刺激に敏感で、長期的な曝露が代謝変化や形態異常につながることも報告されています。
事実、CHO細胞を始めとする様々な哺乳類由来の培養細胞に可視光線や白色光線を長期間照射すると、細胞の生存率や代謝活性が著しく低下(ただし赤色光線では悪影響は少なかった)することが確認されています*3。
そのため、インキュベーターを設置する箇所は、カーテンやブラインドで光を和らげる、または間接照明下に設置するといった工夫が効果的です。
設置場所の光量に気を付けてください。
培養に使用する試薬類も遮光することを推奨します。
場合によっては試薬保管棚も遮光してください。
*1:Schnellbaecher A, et al. Degradation Products of Tryptophan in Cell Culture Media: Contribution to Color and Toxicity. Int J Mol Sci. 2021;22(12):6221.
*2:Schnellbaecher A, et al. Vitamins in cell culture media: Stability and stabilization strategies. Biotechnol Bioeng. 2019 Jun;116(6):1537-1555.
*3:Dani S, et al. The effect of continuous long-term illumination with visible light in different spectral ranges on mammalian cells. Sci Rep. 2024;14(1):9444.
インキュベーターの中の細胞は、外部からのわずかな振動でも敏感に反応します。
とくに三次元培養(スフェロイドやオルガノイドなど)では、振動が原因で構造形成がうまくいかないこともあります。
この動画は特殊な形状の培養容器(中央部分に向かってすり鉢状になっている)を使用して、細胞同士の凝集体であるスフェロイドを形成している様子です。短い時間で細胞が集まっていることがわかります。
そんな時に不均一な振動があると、スフェロイド形成の再現性が著しく低下します。実際にスフェロイド形成時に様々な振動を与えた場合、スフェロイドのサイズが異なることが報告されています*1。
そのため遠心機や冷凍庫といった振動を発する装置や、出入口ドアの近くなどへのインキュベーターの設置は避けた方がよいでしょう。安定した床面や耐震台の上に置くと、振動の影響を最小限にできます。
またメーカーによっては専用の架台を設定している場合がありますので、振動対策について販売店やメーカーに問い合わせることも有効です。
専用架台の使用を推奨します。
収納性に富んだ専用架台。
メーカーでは各機種にあった専用架台を用意しています。
インキュベーターは精密な温度制御を行うため、電力供給の安定が非常に重要です。
他の機器と共用の電源タップを使うと、瞬間的な電圧変動が生じ、温度制御が乱れる恐れがあります。
また、過負荷による火災リスクも否定できません。
可能な限り、アース線(3ピンプラグ)を接続して安全性を確保しましょう。
機器の取扱い説明書の注意書きをご参照ください。
電源ケーブルは3ピン(2極接地極付差込プラグ)を推奨します。
インキュベーターの背面や側面には放熱口や外気取り入れ口、サンプリングポート(庫内からガスを引き出す部分)やガス供給口(各種ガスを接続する部分)があります。
そのため、電気配線およびガスラインの配管のため、製品の側面や背面は十分な空間が確保できるように設置することを推奨しています。また乾熱滅菌機能を持つインキュベーターである場合は、本体周辺に充分な放熱スペースを確保することを推奨しています。
詳しくは各製品に添付される取扱説明書をご覧ください。
扉を開けるたびに、庫内の温度・湿度・CO₂濃度は一時的に変動します。
細胞は環境変化に敏感で、特に温度変化が急だと増殖速度や代謝に影響を及ぼします。
作業はあらかじめ計画的に行い、開閉の回数や時間を最小限にすることを心がけましょう。
また開閉を勢いよくおこなわないよう、慎重に開け閉めすることを習慣づけてください。
勢いよく開閉しないでください。
扉の開閉はゆっくりと慎重に。
扉の開閉により温度・ガス濃度・湿度などが変化します。
温度・湿度・CO₂などのガス濃度を日常的に確認・記録する、すなわちモニタリングをおこなうことは、異常の早期発見につながります。
これらのガス濃度制御に用いられるCO₂センサーやO₂センサー、さらに庫内の空気循環を担っているファンモーターなどの駆動部品は経年劣化するため、定期的なキャリブレーション(校正)や部品交換が推奨されます。
外部機器によるモニタリング。
予備ガスへ切り替えた履歴が残っています。
ログ機能を持ったインキュベーター。
ログ機能を備えたインキュベーターや、インキュベーターに接続された周辺機器の中には、異常発生時のアラートや環境データを定期的に外部へ送信し、遠隔地から監視できるものがあります。
こうした製品を活用することで、インキュベーターなどの機器に起こる異常を早期に把握し、迅速な対応が可能となります。
培養環境を遠隔で監視するシステムの一例。
複数のインキュベーターに発生する異常を一早く知ることができます。
また、機器の状態管理に加え、細胞の状態をリアルタイムで観察できるタイムラプス機能を備えたインキュベーターを使用することで、細胞の挙動を映像として記録できます。
このようなシステムを用いると、培養環境の各種データ(ログ)と併せて保存・確認することができるため、培養条件の評価やトラブル解析に有用です。
参考:待望の最新版!タイムラプスインキュベーターを大解剖
停電や警報発生時の対応を事前に決めておくと、緊急時でも落ち着いて行動できます。
予備電源の確認に加え、サンプル退避用の代替インキュベーター、予備ガスボンベやガス自動切替装置などを用意しておくと安心です。
特にインキュベーターは2台体制で運用することで、片方に異常が発生した場合でもリスクを分散できます。
細胞培養は「環境管理の積み重ね」で成り立っています。
インキュベーターの設置位置や庫内配置、電源管理や清掃など、どれも一見小さなことですが、これらを徹底することでコンタミのリスクを減らし、実験の信頼性を高めることができます。
細胞にとって最適な環境を整えること。
それこそが、研究者にとっての最も重要な第一歩です。
今日からできる工夫で、あなたの実験をより安全で安心なものにしていきましょう。