インキュベーターで細胞を培養するとき「湿度」のことを、どれくらい意識していますか?
温度やCO₂濃度と比べると、つい後回しにされがちですが、実は湿度も細胞培養の成否を左右する大切な要素のひとつです。
※培養容器が密閉されている、ミネラルオイルが培地に重層されている、など特殊な場合を除きます。
十分に加湿されたチャンバーで培養します
加湿水の量には十分注意してください
研究室で静かに命を育むインキュベーター。
その中で細胞たちは栄養豊富な「培地」に守られていますが、もしインキュベーター内の湿度が低下し、培地から水分が蒸発していったら一体何が起こるのでしょうか。
それはまるで、部屋に干した洗濯物が乾いていくような、ごくありふれた現象に思えるかもしれません。
「少しぐらい水分が減っても、問題ないのでは?」と思うかもしれませんが、このわずかな蒸発が、実は細胞にとって深刻な事態を引き起こす引き金となります。
この記事では、見過ごされがちな「培地の蒸発」という現象に焦点を当てます。
なぜそれが細胞培養において致命的な問題となるのか、そのメカニズムから具体的な影響、そして日々の研究で実践できる対策までを、順を追って詳しく解説していきます。
たかが水分の蒸発、されど水分の蒸発。
培地の「水分」がもつ意味の深さを、いま一度見つめ直してみましょう。
培地から水分が蒸発することが、なぜ細胞にとって問題になるのでしょうか。
その答えは、細胞内外の水分バランスを司る「浸透圧」という力に隠されています。
「浸透圧」と聞くと難しく感じるかもしれませんが、私たちの食卓にも身近な例があります。
例えば、梅干しです。
梅干しが出来るまで
採れたての瑞々しい梅を、大量の塩に漬け込むと、梅の内部から水分(梅酢)が抜け出て、あの特徴的なシワシワの姿になります。
これは、濃い塩水(外液)と梅の内部の水分が細胞膜(半透膜)を隔てて接したとき、水が「濃い方を薄めよう」として移動する「浸透」という現象によるものです。このときの水の移動を引き起こす力のことを「浸透圧」と呼び、特殊な装置を使うことで測定することができます。
実は、細胞培養における問題も、まったく同じ原理で説明できます。
梅の場合は「浸透圧」をうまく利用することで美味しい梅干しを作ることができます。
しかし細胞培養では、培地の蒸発による「浸透圧の上昇」は、細胞にとって致命的なストレスとなり、最終的には「細胞死」という取り返しのつかない結果を招いてしまいます。
それでは実際に、培地が蒸発したときにどのように浸透圧が変化するのか?その結果を検証してみましょう。
培地の水分が少なくなる、つまり「蒸発」が発生して量が減ると、その度合いが大きいようであれば見た目にもよくわかると思います。
左:培地が蒸発していない
右:培地が蒸発した
しかし、見た目ではわからないほど水分が少し蒸発すると、溶液中に含まれる物質(溶質)の濃度が高くなり、浸透圧が上がることがあります。
それを調べるのが、液体に溶けている成分(溶質)の濃度を測定する特殊な計測装置(オスモメーター)です。
オスモメーターは、溶液中の溶質の量に応じて生じる浸透圧を測定する装置で、測定値は Osm(オスモル、と呼びます) という単位で表されます。
まず培地が蒸発しないように専用の器具を使ってサンプリングします。
注射針を改良したものを使用します。
ゆっくりと培地をサンプリングします。
サンプリングした培地を計測容器に移します。
その後、計測装置によって培地の成分の濃度などが計測され、結果が出力されます。
浸透圧計測装置(凝固点降下法)
計測は自動的におこなわれます。
計測結果
Osmの値が高いほど「溶質の濃度が高い」つまり水分が少ないことを表しており、浸透圧が高くなっていることを意味します。
では実際に培地で蒸発が発生すると、どんなことが起こるのか?見てみることにしましょう。
培養容器に培地を入れ、一方は加湿していないインキュベーター、もう一方は加湿しているインキュベーターに置きます。
4日後に培地の浸透圧を測定すると、加湿していない方(赤色)では浸透圧の大幅な上昇が認められました。
培地を入れた培養容器
加湿していない場合では大幅な浸透圧上昇が確認されました(赤色)。
浸透圧が350 mOsm程度の液体としては、スポーツ飲料がそれに近い浸透圧を持っています。そのため、この値は細胞にとって優しい浸透圧と言えます。
一方、700 mOsmはコーラやジュースのように甘味が濃い飲み物に近い浸透圧となります。味が濃いためとてもおいしいように思えますが、細胞からは水分を奪ってしまう、とても厳しい環境となります。
では、静置1日後ではどうでしょうか?
静置1日でも蒸発は進行してしまう(赤色)。
※さきほどのグラフと縦軸のスケールが異なっています
このように、たった1日だけでも浸透圧は上昇してしまいます。
「たった20 mOsm上がったくらい…」と思われるかもしれません。実際に細胞からすると可逆的な範囲(水分を出し入れすることにより細胞自身で調整できうる範囲)ではありますが、細胞は徐々にストレスを感じてくるようになります。
これまでの研究では、培地の浸透圧が400 mOsmを上回ると細胞死を導く遺伝子が活性化される傾向にあることが知られています*1。
細胞の種類によっては、それよりも低い浸透圧で何らかの影響が出る可能性もあるため、インキュベーターの湿度低下による浸透圧上昇には注意が必要なのです。
では培地の上に、水分を通しにくいミネラルオイルを重ねた場合はどうなるでしょうか?その結果は以下のようになりました。
培地の上にミネラルオイルを置いた(重層した)状態
ミネラルオイルを重層すると浸透圧上昇が抑えられた。
加湿していない(赤色)・加湿している(青色)
ミネラルオイルで培地に直接フタをすることで、培地の蒸発がかなり抑えられていることがわかりますね。
一度にたくさんの条件で実験を行う際に、この蒸発の問題は深刻になります。
その代表例が、マイクロウェルプレート(または単にプレート)という培養容器を用いる実験です。
これは、手のひらサイズの板状の容器で、碁盤の目のように数十から数百の小さなくぼみ(ウェル)が整然と並んだものです。
各ウェルは独立した小さな実験系として機能することができるため、同時に他条件を並列して評価できる点が大きな利点です。
特に、各ウェルに異なる濃度の薬剤を添加し、その影響を比較する「スクリーニング試験」では欠かせないツールとなっています。
同じ環境で一気に培養できるのが利点です
異なる培地で培養した細胞を簡単に比較できます
プレートを用いた実験では、各ウェルに使用できる培地量が限られているため、培地の蒸発は特に深刻な問題となります。
さらに、この便利な容器には「エッジ効果(Edge Effect)」と呼ばれる特有の現象がつきまといます。
これは、プレート外周のウェルでは培地の蒸発が内側よりも速く進んでしまう、という現象です。
なぜ外周で蒸発が起こりやすいのか?
培地が蒸発すれば、細胞は水分を失って死んでしまうことがあります。
しかし影響はそれにとどまらず、浸透圧や濃度の上昇により、細胞の増殖速度や薬剤応答が変化し、得られるデータに偏りを生じさせます。
実際、どれだけの蒸発がおこっているのかを、8行12列でウェルが並んでいる96ウェルプレートを使い、A社とB社のインキュベーターを用いて蒸発試験をおこないました。
具体的には、すべてのウェルに純水300μL(マイクロリットル)を入れ、加湿されたインキュベーターの中に2週間置いた後、各ウェルの純水を計量しています。
すると、外周部分では蒸発が進行していることがわかりました。
さらにA社とB社のインキュベーターを比べると、B社のインキュベーターでは蒸発度合いが著しいこともわかりました。(下図参照)
このようにインキュベーターのメーカーによって蒸発の度合いに差が出てくる、つまり庫内の湿度に差があることが言えます。
静置2週間後の純水量の計測結果
「エッジ効果」による蒸発が起きると、プレート内の場所によって細胞の状態にばらつきが出てしまいます。その結果、得られる実験データの正確性が損なわれ、再現性も大きく下がってしまいます。
科学において何より大切なのは「信頼性」と「再現性」。
その土台がぐらついてしまっては、どれほど立派な仮説も、正しい結論にはつながりません。
さらに細胞培養は、多くの時間とコストを必要とする作業です。
高価な培地や試薬、そして何よりも貴重な細胞(たとえば患者さん由来の細胞やiPS細胞など)を使っている場合、蒸発による失敗は、単なる「やり直し」では済まない大きな損失になってしまいます。
特に注意が必要なのが、再生医療のように培養細胞をそのまま治療に応用する分野です。
培養環境のわずかな変化でも細胞の品質に影響が及び、治療効果の低下や思わぬ副作用につながるリスクさえあるのです。
細胞を「製品」として扱う時代だからこそ、湿度管理は品質管理の要。
見過ごすわけにはいかない重要なポイントなのです。
では、この見えにくく、やっかいな「蒸発」から、どうすれば大切な細胞を守れるのでしょうか。
原因や起こりやすい場所がわかってきた今こそ、適切な対策をとることが大切です。
高性能な装置に頼る前に、まずは日々の基本的な使い方を見直すことが最も効果的です。
1.については加湿水の交換の他、加湿水の抗カビ剤設置などが推奨されます。
加湿用水として滅菌水をおすすめします
加湿水は静かに注いでください
抗カビ剤は加湿水の微生物汚染を防ぎます。
2.についてはインキュベーターによっては小扉を設定している機種もあるため、これらをご活用ください。
必要最小限の開閉ができる小扉を設定している機種もあります。
3.については、庫内の整理整頓を務めてください。
雑に置かないことが大切です。
整理されていると目的の培養容器も探しやすくなります。
基本的な運用に加えて、少しの工夫で蒸発リスクを劇的に下げることができます。その一例をご紹介しましょう。
外周部での培養には注意が必要です。
外周部をダミーウェルとすることも検討してください。
基本的な対策に加えて、設備そのものの見直しも選択肢の一つです。
特に、高湿度を保つためのノウハウが詰め込まれたウォータージャケット式のインキュベーターは、湿度低下に伴う培地蒸発に対して非常に効果的です。
水を介して熱をチャンバーに伝えて温めます。
扉開閉での温度変化イメージ
インキュベーター内の湿度が下がり、培地が蒸発してしまう――。
それは、単に「水分が減る」だけの話ではありません。
蒸発によって培地の浸透圧が変化すると、細胞にストレスがかかり、やがてはダメージを受けてしまいます。
さらに、実験データの信頼性が失われたり、時間やコストの無駄にもつながるなど、細胞培養にとって見過ごせない「静かな脅威」となるのです。
ですが、その原因である結露の仕組みを理解し、加湿バットの管理やドアの開閉といった日々の基本を丁寧に行うこと。
そして、パラフィルムやダミーウェルなどのちょっとした工夫を取り入れることで、蒸発のリスクは大きく減らすことができます。
大切な細胞にとって最適な環境を整えるために、今日からもう一度、「湿度」に注目してみてください。
その小さな気づきと行動が、あなたの研究をより確かな成果へとつなげてくれるはずです。