細胞培養に限らず、研究や実験では結果の高い再現性が求められます。
今回注目する温度は、この結果の再現性に影響する重要なパラメータのひとつです。
それぞれの細胞にとって最適な温度を超えるまたは下回る温度変化は、細胞増殖動態に非常に大きな影響を及ぼします。
たとえば、インキュベーターで育てられている哺乳類の細胞は、凍結保護剤や温度降下速度などの条件を整えることで-196℃という超低温でも生きたまま凍結保存することができます(解凍するときも注意する必要があります)。
その一方で、ふだんの培養温度である37℃より少し高い温度(39〜40℃くらい)になると、細胞にとってはストレスとなり、しばらくすると元気がなくなり、死んでしまうことがあります。
特に42℃を超えるような高い温度になると、短い時間でも細胞がすぐに壊れてしまうことがよくあります。
生育するには辛い温度です…(高温障害発生中)
参考までに、各種細胞とその生育に最適な温度を一部紹介します。
哺乳類細胞:HeLa細胞(ヒト由来)*1やNIH/3T3細胞(マウス由来)*2など多くの哺乳類細胞は、37℃前後で最適に生育します
昆虫細胞:S2細胞(ショウジョウバエ由来)は、25℃前後で最適に生育します
鳥類細胞:DT40細胞(ニワトリ由来)*4は、39.5℃で最もよく生育する
魚類細胞:魚類細胞の培養温度は生育適温に反映されるため幅がある。(例:RTG-2(ニジマス由来)*5は4℃から24℃)
このように、細胞の種類によって最適な温度にかなり差があることがわかりますね。
結果の再現性を高めるためには、インキュベーター内の培養温度を一定に保つことはもちろん、庫外での操作中にも細胞が急激な温度変化を受けないように注意することが重要です。
*1:JCRB細胞バンク JCRB9004 および 理研セルバンク RCB0007
*2:JCRB細胞バンク JCRB0615 および 理研セルバンク RCB2767
*3:理研セルバンク RCB1153
*4:JCRB細胞バンク JCRB9130 および 理研セルバンク RCB1464
*5:ATCC生物資源バンク CCL-25 および ECACCセルバンク 90102509
細胞培養のメインとなるインキュベーター内の温度が変化するのはどんな時でしょうか。
一番多いのはインキュベーターの扉の開閉です。
外扉・内扉のどちらを開けた場合でも、インキュベーター庫内の温度は変化します。
ダイレクトヒート式とウォータージャケット式では温度変化の速度に違いはありますが、いずれにせよ温度が変動することに変わりはありません。
扉の開閉により庫内温度が変化します
※参考記事「インキュベーターの中では何が起きている?~加温方式の違いをじっくり解説~」
https://info.astec-bio.com/differences-in-heating-methods/
他にも、インキュベーター外での操作や使用する器具によって、培養環境の温度が一時的に変化し、細胞の生育に影響を及ぼす可能性があります。
特に、以下のような要因が温度変動の原因となり得ます。
冷蔵・冷凍保管している容器の取扱いに注意
オートクレーブ滅菌したばかりの加湿水には注意
これらの要因が培養環境の温度変化を引き起こし、その結果、実験間のばらつきを大きくしてしまうことが考えられます。
そのため、細胞培養ではこれらによる温度変化を最小限に抑えることが求められます。
温度変化を最小限に抑え、温度回復時間を短縮する方法を、大きく3つに分けて紹介します。
なによりもインキュベーターの外扉・内扉の開閉は必要最小限にとどめ、開ける際は素早く操作することを心がけることです。
開閉のたびに外気が入り込み、庫内に温度ムラやコールドスポット(局所的な低温部位)を作らないようにしましょう。
また、フラスコやディッシュなどの培養容器は詰め込みすぎず、容器同士の間に適度な隙間を保つように配置しましょう。
これにより、庫内の空気がスムーズに対流し、温度の均一化がはかれます。
容器は適度な間隔を保って置いてください
余裕のある庫内レイアウトを心がけてください
さらに、インキュベーター内にシェーカーやスターラーなどの機器を設置する場合は、以下の点に注意してください。
庫内にシェーカーを置くときには注意が必要です
これらの工夫により、インキュベーター内の温度安定性を保ち、再現性の高い細胞培養が可能になります。
フラスコやディッシュなどの培養容器がインキュベーターから出ている時間が短ければ短いほど、細胞培養の温度変化は小さくて済みます。
インキュベーターから出し、戻すまでの細胞処理プロセスに費やす時間を最小限に抑えるポイントは以下の通りです。
室温などの環境の整備、実験の手技の習得が細胞培養の温度変化を最小限に抑えることにつながります。
設定温度とほぼ変わらないインキュベーター庫内温度
細胞の生育に適した温度を維持している暖かいインキュベーターの中に冷たい培養容器や培地などの溶液を入れてしまったら、インキュベーター内の温度は下がってしまいます。
また、冷たい培地などの溶液を加えられてしまった細胞は、その後の生育に支障がでてしまうかもしれません。
ウォーターバスによる予温
培養に使用する溶液は予温することを推奨します
新しく溶液を用意する場合は、溶液の入ったボトルを37℃程度に設定されたウォーターバスで予温(あらかじめ温めておくこと)するのが一般的です。
培地などの溶液はウォーターバスなどで予温することを推奨します
「最終的にインキュベーターに入れるのだから、最初から培地をインキュベーターに入れて温めちゃえばいいんじゃないの?」
インキュベーターで加温…いいのかな?
という声が聞こえてきそうですが、これはインキュベーター庫内の温度変化ばかりでなく、微生物汚染リスクが高まる可能性があるため、一般的には推奨されません。
それはいったいなぜでしょうか?
インキュベーターの中に温度差が大きい溶液ボトル(例. 冷蔵保管していた培地ボトルなど)を置くと、高湿度でなくても結露が発生する可能性があります。
温度差による結露でコンタミが発生するかも?
その結露によって溶液ボトル表面の微生物が増殖する危険性があり、コンタミネーションによる微生物汚染のリスクが高まるのです。
とはいえ、ウォーターバスが故障中で使用できない、予温できるスペースが無い、といったやむを得ない事情がある場合には、インキュベーター内での予温も選択肢の一つです。
その際は、溶液ボトルの加温専用として用いるインキュベーターを使用し、ボトル外面を清潔に保つなどの処置を行い、衛生管理には十分注意してください。
ただし、これはあくまでもウォーターバスが使用できない場合の応急的な対応であることを、くれぐれも忘れないようにしてください。
細胞の種類によって最適な温度は異なり、適切な温度範囲を超えると細胞の増殖や生存に大きな影響を与えることがわかっています。
再現性の高い実験結果を得るためには「温度を一定に保つ」ことが不可欠です。
そのためには以下のような対策が必要となります。
【インキュベーターの管理】
扉の開閉を最小限にし、空気循環をよくするためにフラスコやディッシュなどの培養容器を詰め込みすぎない・重ねない。
【細胞の処理時間の短縮】
作業室やクリーンベンチなどの温度管理を徹底し、作業の準備を整え、操作は迅速におこなう。
【培地など溶液類の予熱】
基本的にはウォーターバスで予熱をおこない、インキュベーター庫内の温度変化ばかりでなく培地を予め温めておく。
これらの対策により、温度変化を最小限にすることで、細胞培養の再現性と安定性を高めることが可能となります。
取り扱う細胞の特性をよく理解し、それぞれに適した環境を整えることは、研究や実験を成功に導くうえで非常に重要です。
細胞培養は、時に数年にも渡る長い年月と労力を必要とする繊細な作業です。そのため、温度管理には常に注意を払う必要があります。
細胞が最適な環境下で正常に増殖・維持されることで、環境の違いによる細胞の変化をより明確に見いだせるようになり、新たな発見や生命現象の解明への大きな足掛かりとなるかもしれません。