細胞培養の現場で、インキュベーターのドアを開けるとき。
その瞬間、思わず息をひそめ、慎重に手を動かしたことはありませんか?
あの独特の緊張感の正体は、言うまでもなく「環境の乱れ」への不安です。

チャンバーへの扉は静かに開けましょう。

チャンバー内には貴重な細胞が培養されています。
というのも、ドアを開けるという何気ない動作は、コンタミネーションや温度・湿度・ガス濃度の急変など、細胞にとっては見逃せないリスクを引き起こす引き金になるからです。
特に加湿水はカビなどの微生物にとっては絶好の場所ですので、ドアを開けた時に入り込んだホコリや微生物が混入して増殖しているかもしれません。
①加湿水で微生物が増殖
②ドアを開けるときに発生した空気の流れで庫内を浮遊
③培養容器の表面に微生物が付着
といった流れで汚染されてしまった培養容器を、知らずに無菌操作していると…その微生物によってコンタミが起きるかもしれません。

①加湿水に微生物が繁殖?

②気流で微生物が付着するかも?

③付着した微生物が無菌操作中に混入?

コンタミが起きてしまうかも?
また、どんなに高性能なインキュベーターであっても、外気が流れ込めば内部環境は大きく変化してしまいます。

ダイレクトヒート型インキュベーターのイメージ図

ウォータージャケット型インキュベーターのイメージ図

扉を開けた時の温度変化イメージ図
この記事では、そうした「ドアの開閉」によるリスクをどう克服するか、そしてインキュベーターにはどのような安定化技術が詰まっているのかに注目してご紹介していきます。
まずは、細胞培養において最も頻繁に行われる操作、「ドアの開閉」から見ていきましょう。
一見シンプルな動作ですが、そこには培養の質を左右するリスクが隠れています。
インキュベーターのドアを閉めるとき、「バタン!」と勢いよく音を立ててしまったことはありませんか?
実はこの衝撃、意外にもコンタミの原因になりかねません。

突然の衝撃は細胞を驚かせます。

振動が培地に伝わると細胞も揺れてしまいます。
細胞の大きさは0.01mmから0.1mmと非常に小さいため、ちょっとの振動が細胞にとっては大きな衝撃となって襲い掛かります。
夏の暑いときに流れの早いプールや川を泳いだとき、体の表面を流れる水の力を強く感じることはありませんか?
このような水のような流体が流れるときに生じる力を「せん断応力(Shear stress:シアーストレス)」と呼びます。
もちろん振動によって起きる培地の流れでもこの力が発生します。小さな細胞にとって、この力は無視できず、場合によっては細胞の成長や分化、機能に影響を及ぼすことがあります。
特にMSC(Mesenchymal Stem Cell: 間葉系間質細胞)では、培地の流れによるせん断応力により骨芽細胞(骨となる細胞)へ分化することが知られています*1。
一方、iPS細胞(人工多能性幹細胞)は、再生医療において欠かせない存在であり、先日の大阪・関西万博の展示でも注目を集めました。
この細胞は MSC よりも外部刺激に敏感であり、せん断応力によって細胞生存率の著しい低下や、未分化能の低下が確認されています*2。
さらに、せん断応力には細胞核内の染色体の数や構造に異常が生じる「核型異常*3」を引き起こすリスクがあるとされており、培地の揺れといった目に見えない力が、iPS細胞に大きな影響を与える可能性があることが示されています。
また庫内は高湿度に保たれていますが、温度ムラがあると結露が発生することがあります。
いくら高性能なインキュベーターであったとしても、ドアを開けた時に冷たい部屋の風がチャンバー内へ大量に入り込んだら…内部の温度分布にムラが生じて、結露が起こってしまうかもしれません。
そういった水滴には庫外から入り込んだ微生物が含まれている可能性もあり、落下すれば細胞にとっては致命的なリスクです。

温度ムラによる結露が発生した庫内

広範囲に出現した結露

内扉の庫内側にも結露は発生します。
こうしたトラブルを防ぐため、インキュベーターの外扉、内扉、どちらも開閉時にはゆっくりと動かすように心掛けましょう。
時には手を添えてゆっくりと優しく開閉することも有効です。

インキュベーターの扉は強く開け閉めしないでください。

扉の開け閉めはゆっくりと優しくしましょう。
こういった一つ一つの所作が、振動による細胞の機能変化やコンタミといったリスクを低減することにつながります。
*3:染色体の数や構造に通常とは異なる変化が起きた状態を指します。染色体特有の縞模様を顕微鏡観察する他、DNAの塩基配列の違いを可視化する核型解析によって検出します。
複数人でインキュベーターを共有する研究室では、時に「チャンバーを開けたあと、しっかりと閉めていなかった!」、「しかも別の人のチャンバー!」というヒューマンエラーが起きることもあります。

チャンバーの開閉は慎重に!

開けたらしっかりと閉めましょう!
わずか数秒の開閉でも、低酸素環境での培養や、長期間にわたる実験の最終段階では大きな影響を及ぼします。
このような事態に備えて搭載されているのが「チャンバーロック機構」です。

チャンバーに備えられたロック機構(青色矢印)。

各チャンバー個別にロックが可能です。
各チャンバーには物理的なロック機構が備わっており、開閉時にも確実な密閉を維持することができます。
一見些細な機能に思われますが、貴重なサンプルを保護し、再現性の高い実験環境を支える――まさに“縁の下の力持ち”のような存在です。
ドアの開閉が完全に避けられない以上、その影響をどう抑えるかが次の課題です。
ここで登場するのが、「個別チャンバー」という考え方です。
例えば、庫内が一体型のインキュベーターでは、奥のサンプルを取り出すためだけに、大きなガラスドア全体を開けなければなりません。

奥にある右側のTフラスコを取り出します。

左側のTフラスコの培養環境が変わってしまう!
その一瞬で、37℃に保たれていた庫内の空気は外に逃げ、冷たく乾いた室内の空気が流れ込みます。
CO₂濃度も急激に低下・O₂濃度も急激に変化し、さらに湿度も下がってしまいますので、内部の環境は大きく乱れます。
しかも、その影響は自分の細胞だけでなく、同じ庫内の他の人のサンプルにも及ぶのです。

小型インキュベーターからディッシュを取り出します。

チャンバーのロックを解除して開けます。

環境変化の影響はチャンバー全体に及びます。
共同利用が多い現場では、この影響が繰り返されることで、実験の安定性が損なわれるリスクがあります。
その問題を根本から解決するのが「個別チャンバー」方式です。
1台のインキュベーター内部を複数の小さなチャンバーに分け、それぞれに独立した扉を設けることで、他のサンプルへの影響を最小限に抑えることができます。
開閉のたびに全体環境が乱れるモデルとは異なり、常に安定した培養条件を保つことが可能です。

個別チャンバー方式を採用したインキュベーター

1つのチャンバーに1枚のディッシュが置かれます。
この仕組みにより、自分のタイミングで安心して作業ができるだけでなく、それぞれの胚や細胞が安定した環境で育つことで、実験の再現性や信頼性も高まります。
「分ける」というシンプルな工夫が、研究全体の質を底上げすることにつながっているのです。
これまで、ドアの開閉を前提に、それによるリスクをいかに減らすかという視点でお話ししてきました。
でも、発想を逆転させてみましょう。
「そもそも、ドアを開けなければいいのでは?」
そんな考えから生まれたのが、「観察窓」という技術です。
そのジレンマを解消するのが、インキュベーターのチャンバーそのものに「観察窓」が組み込まれたモデルです。
「自分のディッシュはどこだったかな?」「培養状況はどうかな?酸性に傾き過ぎていないかな?」
といったことを確認するため、チャンバーのサイズを小さくし、大きな内扉を開けることなく内部の様子を確認することができます、

チャンバーのサイズを小さく(特に浅く)したインキュベーター

観察窓を通してチャンバー内部の様子を簡単に確認できます。
培養している細胞の状態を確認するために、容器をインキュベーターから取り出し、顕微鏡にかけて観察する――この一連の流れは、ごく日常的な作業です。

顕微鏡で観察しています。

増殖や形態から状況を判断します。

特殊な光による観察。

インキュベーター外で観察します。
しかしその間、細胞は温度変化やCO2濃度変化に伴うpH変動、実験室の照明光(近年ではLED照明が増えています)への曝露、乾燥など、さまざまなストレスに晒されています。
確認のために細胞を観察する行動自体が、逆に細胞へダメージを与えてしまうというジレンマがあったのです。
なお、こういったストレスのうち、CO2濃度の変化によるpHの変動はpH指示薬(pHに応じて色が変わる色素)を用いることで可視化することができます。
下の動画では5%CO2濃度のインキュベーターに置いていたディッシュを、庫外へ取り出したあとの様子をタイムラプス撮影したものです。
ディッシュのpHが急速に変化している(最初のオレンジ色ではpH7.3程度、後半のピンク色ではpH7.8程度)ことがわかります。
このような環境変化は細胞にとって大きなストレスとなってしまい、細胞本来の機能が失われ、最悪の場合は細胞の死を招くこともあります。
そういった恐ろしいリスクを受けないように、インキュベーターの扉を開けずに培養中の細胞を観察する機器として開発された製品が、次にご紹介するタイムラプスインキュベーターという装置です
タイムラプスインキュベーターでは細胞を培養しながら、その培養環境を変えずに観察することが可能です。
タイムラプスインキュベーターは庫内に観察用のカメラがあり、庫外からの操作が可能な場合が多い為、インキュベーター庫内の環境への影響を最小限に止めることができます。

タイムラプスインキュベーターの外観

庫内側に撮影機能が備わっています

対物レンズは庫内のディッシュの様子を観察します
この装置の登場により、これまでよく知られていなかった細胞の動きに関する研究が盛んにおこなわれるようになり、そのダイナミックな動きは研究者に驚きを与えてきました。
培養中の細胞のタイムラプス動画
(1)褐色脂肪細胞
細胞内部には脂肪滴(粒のように見える構造体)が多数確認されますが、常に存在しているわけではなく数が増えたり減ったり、大きさも変化します。
(2)緑色の蛍光を放つタンパク質GFPを作っている細胞
GFP(青色の光を受けると、緑色に光る蛍光タンパク質)の遺伝子を組み込んだ細胞を培養すると、時間が経つにつれてGFPの光が強くなります。
(3)筋繊維を作り出す筋芽細胞
筋芽細胞(単核の細胞)同士が融合し、筋管細胞(多核の細胞)が作られ、やがて筋繊維へと成長していきます。
培養している細胞をタイムラプス撮影することで、これまで見落としていた事実に気づくことができるかもしれません。
今回ご紹介したインキュベーターの技術は、どれも一見すると独立した便利機能のように見えるかもしれません。
けれど、その根底には共通した設計思想があります。
それは、「細胞にとって理想的な環境を、できる限り乱すことなく、持続的に保ちたい」という強い思いです。
ドアの静かな閉まり方、うっかり開放を防ぐロック、小さく分けられたチャンバー、観察窓によるストレスフリーな観察。
すべてが、細胞の健やかな成長と、研究の確実性を支えるための工夫です。
日々の作業の中では見過ごされがちなこれらの技術に、もう一度目を向けてみると、研究の質を高める新たなヒントが見つかるかもしれません。