インキュベーターの掃除、あなたはどんな方法をとっていますか?
多くの方が、70%エタノールに代表される消毒用アルコールをシュッと噴きかけ、サッと拭き上げる――。

EtOHはエタノールという意味です

エタノール噴霧ちょっと待って(ディッシュが…)
そんな手順を思い浮かべるかもしれません。
確かに、どこの研究室でも見かける光景ですし、実際に効果的な方法でもあります。
ただ、それが「すべての場合において最適」かというと、少し立ち止まって考える必要があります。
アルコールを用いた殺菌や消毒には、意外と見落とされがちなリスクも潜んでいます。
この記事では、エタノールの強みと弱点を科学的な視点から見つめ直し、インキュベーターにとって本当に安全なお手入れとは何かを考えていきます。
70%エタノールが広く使われている理由には、いくつもの「納得のいく利点」があります。
まず挙げられるのは、その殺菌力。
エタノールは細菌、真菌(カビや酵母)、およびインフルエンザウイルスなど脂質でできた二重膜構造(エンベロープ)を持つウイルスに対して非常に効果的です。

ウイルスには脂質二重膜(図内の⑥)を持つものがいます
エタノールを始めとするアルコールは、この脂質に作用して膜構造を破壊する(溶かす)性質があるため、優れた殺菌力を発揮します。

アルコールは脂質を溶かします

細菌も脂質二重膜がありますので効果があります
さらに、揮発性が高いため拭き取り後に薬剤が残留しにくいことから、二度拭き(溶液の拭き取り)の必要もほとんどありません。

アルコールの使用は非常に簡単です

アルコールでは二度拭き(溶液の拭き取り)はほぼ必要ありません
そして何より、安価で入手しやすい。これらの理由から、日常的な清掃のスタンダードとして長く支持されてきました。
*1:Y_tambe, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons (modified by Takahiro Ogata)
便利なエタノールですが、全くリスクがないわけではありません。
ひとつ目の懸念は、VOC(Volatile Organic Compounds: 揮発性有機化合物)としての影響です。
揮発性有機化合物とは常温で気体(ガス)になりやすい有機化合物の総称です。
車を運転する人ならわかると思いますが、ガソリンスタンドでは特徴的なにおいが漂っています。
これはガソリン中のトルエンやキシレンといった多くの有機化合物(炭素「C」を分子骨格として含む化学物質。一部例外もあります)が気体となっているためで、そういった化合物をVOCと呼びます。
エタノールを始めとするアルコール類は常温で気体、つまりガスとなりやすいことからVOCの一種として数えられています。

エタノールはVOCの一種です

エタノールのガスは培地中の細胞に悪影響を及ぼすかもしれません
そのめエタノールを用いた拭き掃除の直後には、インキュベーターの庫内にエタノールのガスがしばらく残ってしまうことがあります。
このガスが細胞に触れることで、細胞膜が不安定になったり、タンパク質の働きが乱れたりする「細胞毒性」が発生する可能性があるのです。
特に、胚(受精卵)やiPS細胞やES細胞といった幹細胞など、環境変化にとても敏感な細胞を扱う場合には、このガスの影響は見逃せません。
実際、こうした培養ではアルコール類の使用が禁止されているケースもあるほどです。
日常的な培養でも、「気づかぬうちにストレスを与えているかもしれない」と意識することが大切です。
なお、インキュベーターのチャンバー内にボンベから供給されるCO2ガスやN2ガス、O2ガスなどは、流路の途中に専用のVOCフィルターを設けることで、VOCを効率よく除去することができます。

ボンベからのガスに含まれるVOCを除去するフィルター

フィルターの設置例

VOCを除去しているフィルター
ただし、チャンバー内で発生するVOCにはほとんど効果が無いことが多いため、VOCフィルターを装着していてもアルコール類の取扱いには注意が必要です。
現在では細胞培養をおこなう箇所でガスバーナーをはじめとする火気を扱うケースは少なくなっていますが、微細電極の作製といったガラス加工をおこなう場合はバーナーを使用することがあります。
エタノールは消防法で定められた危険物(第4類中のアルコール類)ですので、取扱には細心の注意が必要です。
特に引火性が高い点や、燃焼時に炎がほとんど見えない点、水を使って消火すると逆に火が広がる危険がある点に注意してください。
万一、引火した場合は落ち着いて消火器や消火ブランケットなど適切な方法で消火することが重要です*1。
*1:筆者の学生時代の経験として、ある研究者がシンク上でエタノールに引火させてしまった場面に遭遇したことがあります。幸い火事にはなりませんでしたが、水を使って消火することが非常に困難だったことをよく覚えています。
もうひとつの注意点は、アルコール類が効かない微生物も存在するということ。
耐熱性の細菌であるクロストリジウム属やバチルス属などは、芽胞(耐久性の高い休眠形態の微生物)を形成するものがあり、そのような芽胞に対しては、アルコールの効果が弱い場合があります。
またアルコールが溶かすことができる脂質から構成されているエンベロープを持っているウイルスには強い効果を示しますが、これを持たない「ノンエンベロープウイルス」にはあまり効きません。
例えば、ノロウイルスやロタウイルスがそれにあたります。

脂質二重膜を持たないノンエンベロープウイルス(①はカプシド。②は核酸。③はカプソメア)

ノロウイルスのモデル図*1

ノロタウイルスのモデル図*2
こういったノンエンベロープウイルスや一部の微生物にはアルコールの効果が弱い、あるいはほとんど無いため、「エタノールは万能」という認識には一度立ち止まって考える必要があります。
*1:This image is Public Domain from wikimedia commons.
*2:This image is CC BY 2.0. from NIAID.
では、エタノール以外にはどのような選択肢があるのでしょうか?
エタノールの代替として注目されているのが、「第四級アンモニウム塩」を主成分とする殺菌・除菌剤です。

細胞培養の現場専用の殺菌溶液もあります

有効成分に第四級アンモニウム塩と書かれています
この第四級アンモニウム塩はタンパク質の立体構造を崩すため、微生物やウイルスの表面に出ているタンパク質に作用します。
こういった殺菌・除菌剤は病院や介護現場などでも広く使われており、以下のような特長があります。
ただし、アルコール類のようにすぐには蒸発しないため、薬剤が表面に残りやすいという特性があります。

第四級アンモニウム塩はほとんど蒸発しません

残留成分を残さないようにしっかりと拭き取ることも必要です
そのため、使用後は必ず清潔な布と、場合によっては滅菌水を使っての二度拭きを行うことが必要です。
このひと手間を面倒に感じず、安全な環境を維持する意識が求められます。
最終的に、「どの薬剤を使うべきか」は一律に決められるものではありません。
70%エタノールは今でも十分に有効な選択肢です。
ただし、使用後は十分な換気を行い、エタノール蒸気が庫内に残らないようにしましょう。
非VOC系の殺菌・除菌剤(第四級アンモニウム塩など)がおすすめです。
細胞への安全性を最優先したいときには、少しの手間を惜しまず、確実な方法を選びましょう。
今回は、インキュベーター清掃に使われる薬剤の特徴や選び方についてお話ししました。
「とりあえずエタノールで拭いておけばOK」と思っていた方も、今一度、その方法が本当に自分の実験に合っているかを見直すきっかけになれば幸いです。
そして、清掃・除菌したあとは、そのきれいな状態をどう維持していくかも大切です。
たとえば、加湿水に銀イオンなどの抗菌剤を加えることで、微生物の繁殖自体を防ぐという考え方もあります。

加湿水からコンタミ対策しましょう

置くだけ簡単のコンタミ予防対策

銀イオンが微生物から守ります
参考:「コンタミネーション対策~見えない「侵略者」から細胞を守るために~」※リンク
日々進化する実験環境の中で、私たち自身も知識をアップデートしながら、より安全で安定した細胞培養に取り組んでいきましょう。