インキュベーターの進化と歴史

細胞や微生物の研究、さらには医療の現場でも欠かせない存在となっている「インキュベーター」。

この言葉の由来や、歴史、そして未来について、少し掘り下げてみましょう。

「インキュベーター」という言葉の由来

「インキュベーター(Incubator)」の語源は、ラテン語の incubare

これは「〜の上に」の in と、「横たわる」の cubare から「卵を抱いて温める」という意味があります。

ここから派生して、英語の incubate は「卵を孵化させる」「育てる」といった意味になり、incubator は以下のようなさまざまな意味を持つようになりました。

  • 卵を温めて孵化させる装置
  • 赤ちゃんの成長を助ける保育器
  • 細胞や微生物を育てる恒温装置
  • ベンチャー企業などを育てる支援団体

このように、「育てる・成長を助ける」ことがインキュベーターの本質とも言えるでしょう。

古代から続く「温める文化」

インキュベーターの基本となる考え方は、じつは紀元前までさかのぼります。

紀元前4世紀、古代エジプトでは、薪の燃焼熱を利用してニワトリの卵を孵化させる装置が作られていました。

上にある画像は19世紀の雑誌*1に描かれた孵化装置のイラストです。
卵を下の部屋(チャンバー)に置き、その上の部屋で薪や家畜の糞を燃やして卵の孵化を促していたとされています。

鶏肉や卵は当時の貴重なタンパク源。このような食糧を安定して供給することが、社会や文明の発展には必要不可欠でした。

人々はそういった経験から「温度を一定に保つこと」が命を育てるうえで大切だと気づいていたのです。

*1: Ancient Egyptians Invented World’s Oldest Egg Ovens And They Are Still In Use.
およびの画像はwikimediaより(Published in “The Penny Magazine“, Volume II, Number 87, August 10, 1833.)

組織培養・細胞培養の始まり

時代は進み、1888年、ドイツの生物学者ヴィルヘルム・ルー(W. Roux)によって、世界初の組織培養(ニワトリ胚の神経組織)が成功します。

続いて1907年、アメリカの科学者ロス・ハリソン(Ross G. Harrison)が、カエルの胚から得た神経組織を用いた世界初の細胞培養に成功し、神経細胞を生かしたままの状態で構造の変化(神経突起が伸びていく様子)を観察しました*1 *2

培養に使われた器具の写真などは残されていませんが、当時の論文から書かれていた内容から考えて、以下のような特徴を持った器具で培養していたと思われます。

①培養容器に「培地(培養液)」を入れ、そこに組織や細胞を置く。
②培地の蒸発や乾燥を防ぐために、組織や細胞の上にカバーガラスを置く。
③カバーガラスを載せた培養容器を水が入った水槽の上に置く。
④水槽の上に箱をかぶせることで保湿箱(Moist Chamber)を作る。
⑤この保湿箱をインキュベーター(保温箱)内に置き、温度と湿度を管理しながら培養する。

このことから想像して、当時の培養装置はおそらく次のような形をしていたと思われます。

このころには「温度に加えて湿度を安定させることも、細胞の育成には欠かせない」ことがわかってきました。

とはいえ、当時の培養では「pH(液体の酸性・アルカリ性の度合い)」を安定させるのが大きな課題でした。

*1: Harrison RG. The outgrowth of the nerve fiber as a mode of protoplasmic movement. J. Exp. Zool. 1910;9: 787-846.
*2: Harrison RG, et al. Observations of the living developing nerve fiber. Anat Rec. 1907;1:116–128.

生体とpHの関係

pHとは水溶液中の水素イオン(H⁺)の濃度を示すもので、0から14の数値で表されます。7を中性として、それよりも低い場合は酸性、高い場合はアルカリ性と呼ばれます。

さて、私たちの体内では様々な化学反応が起こっています。薬物を分解したり、新しいタンパク質やDNAを作り出したり、逆にそれらを分解したりなど多くありますが、それらの反応に必要なエネルギー(ATP)を作り出すとき水素イオン(H⁺)が生まれてしまいます。

そのままにしておけば体の中の水素イオン(H⁺)濃度はどんどん高まっていき、酸性に近づいてしまいます。

そうならないよう、私たちの体の中にある、重炭酸緩衝系という仕組みによって、血液のpHはおよそ7.2〜7.4の間に保たれています。

少し難しいですが、上のイラストにあるように肺の呼吸や腎臓のはたらきによって、体の中の二酸化炭素(CO₂)、水素イオン(H⁺)、そして重炭酸イオン(HCO₃⁻)の量が平衡状態(それぞれの濃度が釣り合った状態。バランスがとれた状態。)となるようにうまく調整されており、そのおかげで血液のpHは通常7.2〜7.4の範囲に保たれています。

しかし、細胞を体の中から取り出してきて、「培地」の中に置いて体の外で細胞を育てる場合では、こうした肺や腎臓などはありませんので自然の調整機構は使えません。

細胞培養におけるpHとCO₂の関係

そこで登場するのが、CO₂インキュベーターです。

CO₂インキュベーターからのCO₂ガスと、細胞を培養するために必要な「培地」の中に含まれている炭酸水素ナトリウム(NaHCO₃)をうまく利用することで、pHを安定させる「人工の緩衝系」をつくります。

インキュベーターの中では、二酸化炭素(CO₂)が培地に溶け込んだり(溶解)、逆に出ていったり(揮発)しながら、水素イオン(H⁺)や重炭酸イオン(HCO₃⁻)と釣り合おう(バランスをとろう)とします。

この釣り合い(バランス)が保たれる平衡状態となることで、培地のpHは安定します。このときのCO₂の濃度は、培地に含まれるNaHCO₃(炭酸水素ナトリウム)の量に合わせて調整されており、最終的にpHが7.2~7.4の範囲に保たれるように設定されています。


細胞の培養に使われる培地には多くの種類がありますが、そのほとんどは5%の二酸化炭素(CO₂)濃度で、pHが7.2〜7.4に保たれるようにNaHCO₃(炭酸水素ナトリウム)の濃度が調整されています。

これは、1台のインキュベーター内で複数の培地を使って効率よく細胞を培養できるためと思われます。

実際に使われている培地とNaHCO₃(炭酸水素ナトリウム)の濃度は以下のようになっています。

培地名NaHCO₃濃度CO₂濃度備考
MEM2.2 g/L5 %多くの動物細胞の培養で利用
RPMI16402.0 g/L5 %多くの動物細胞の培養で利用
L-15含まれない0 %重炭酸緩衝系ではなくリン酸による緩衝系が機能する
タンパク生産用など
特殊な培地
非公開8 %pH維持のために他の緩衝剤を含んでいる可能性がある

また、培地にはpHの変化を目で確認できるよう「フェノールレッド」という色素が使われていることが多く、pHの状態が色で判断できるようになっています。

ただし、蛍光顕微鏡といった特殊な顕微鏡での観察や、精密な測定をおこなう場合はフェノールレッドが無い培地が使用されますので、注意が必要です。

マウスの受精卵(胚)を培養するKSOMという培地は、通常5%のCO2濃度で使用します。この培地を10%のCO2濃度のインキュベーターで一晩(おおよそ14~18時間)置いた後、インキュベーターの中から取り出しておくと、培地に溶け込んでいたCO2が大気に向かって抜けていき、やがて培地のpHはアルカリ性に傾くようになります。

上の画像の下側にある数字はインキュベーターから取り出したあとの経過時間です。時間が経つにつれ、pHがアルカリ性に近づくことがわかります。

このように、CO₂が多すぎたり少なすぎたりすると、培地のpH(酸性やアルカリ性の度合い)が変わってしまい、細胞にとって居心地の悪い環境になってしまいます。


細胞の培養に最適なpHを維持して、「細胞を元気に育てるためには、CO₂濃度の維持も欠かせない」のです。

湿度の管理も大切

細胞培養では、CO₂だけでなく「湿度」の維持や管理もとても重要です。

多くの培養容器は先ほどのpH維持のためのCO2や、生きていくために必要なO2などのガスを培地へ行き来させるため、わずかなスキマ(または目の細かいフィルター)を通して外部とつながっており、そのままだと中の培地が蒸発してしまいます。

多くのインキュベーター内には、培地の蒸発を防ぐための加湿用の水槽(バットやタンク)が設けられています。この水から発生する水蒸気によって庫内の湿度が保たれ、培養容器のスキマからの培地の蒸発が抑えられる仕組みになっています。

加湿用の水には水道水はほとんど使われません。水道水にはカルシウムやマグネシウムなど様々な金属イオンが含まれているため、それらが汚れの原因となることがあります。また、消毒に用いられた塩素がインキュベーター内で揮発し、細胞の培養に影響を及ぼす可能性もあるからです。

そのため蒸留水をオートクレーブ滅菌(高温高圧であらゆる微生物をすべて死滅させる処理)したものがよく使われます。

これによりインキュベーターの内部を高湿度となるような環境を保つことで、細胞の培養に最適な環境を安定させることができます。

なお、加湿水の中にはカビなどの微生物が生えてしまうことがあります。そういった微生物が生えたり増えたりすることを防ぐため、加湿水の中に殺菌効果が高い銀イオンなどを置く場合もあります。

技術革新とともに進化したインキュベーター

これまでお話ししたようにCO₂インキュベーターは、細胞が健康に育つために必要な二酸化炭素の濃度をコントロールできる優れものです。

培地の炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)インキュベーターの中の二酸化炭素(CO2)の濃度を適切に保つことで、細胞は人の体内に近い「pH7.2~7.4という安定した」環境を再現することができるようになりました。

しかし、まだ完璧な再現ではありません。大気中と体内では酸素濃度が違います。

さらにその後の研究で、人の体内の酸素濃度は実は大気中よりも低いことがわかってきました。

*脳での酸素濃度に関する論文
Schultheiss R, et al. Tissue pO2 of human brain cortex–method, basic results and effects of pentoxifylline. Angiology. 1987;38(3):221-225.
Dings J, et al. Clinical experience with 118 brain tissue oxygen partial pressure catheter probes. Neurosurgery. 1998;43(5):1082-1095.

*肺での酸素濃度に関する論文
Sverzellati N, et al. New insights on COPD imaging via CT and MRI. Int J Chron Obstruct Pulmon Dis. 2007;2(3):301-12.
Le QT, et al. An evaluation of tumor oxygenation and gene expression in patients with early stage non-small cell lung cancers. Clin Cancer Res. 2006;12(5):1507-1514.
Miller GW, al. A short-breath-hold technique for lung pO2 mapping with 3He MRI. Magn Reson Med. 2010;63(1):127-136.

*肝臓での酸素濃度に関する論文
Leary TS, et al. Measurement of liver tissue oxygenation after orthotopic liver transplantation using a multiparameter sensor. A pilot study. Anaesthesia. 2002;57(11):1128-1133.
Brooks AJ, et al. Liver tissue partial pressure of oxygen and carbon dioxide during partial hepatectomy. Br J Anaesth. 2004;92(5):735-737.

*動脈血での酸素濃度に関する論文
Brahimi-Horn MC, Pouysségur J. Oxygen, a source of life and stress. FEBS Lett. 2007;581(19):3582-3591.

*腎臓での酸素濃度に関する論文
Zhang JL, et al. Measurement of renal tissue oxygenation with blood oxygen level-dependent MRI and oxygen transit modeling. Am J Physiol Renal Physiol. 2014;306(6):F579-87.

より体内の環境に近づけるため、窒素ガスを加えて酸素の量を調整し、より生体に近い低酸素環境を再現できる「マルチガスインキュベーター」が開発されました。

これにより、さらに高度な細胞研究が可能になったのです。

現代のインキュベーターと未来の展望

現在のインキュベーターは、温度・湿度・CO₂濃度を一定に保つ高性能な装置として、さまざまな分野で活躍しています。

構造としては「ダイレクトヒート型」や「ウォータージャケット型」が主流ですが、近年ではさらに多機能なモデルが増えてきました。

たとえば、

  • タッチパネルによる直感的な操作
  • 温度やCO₂濃度のログ管理、アラート通知
  • タイムラプスでの観察映像撮影
  • 自動培養やガス切り替え機能
  • IoTによる遠隔操作やデータ連携

など、まるで“育成のパートナー”のように進化を続けています。

これからのインキュベーターは?

インキュベーターの原点は「卵を温めて孵す」というシンプルなものでしたが、時代とともに求められる機能は大きく変わってきました。

これからのインキュベーターは、細胞の成長を見守り支える「パートナー」のような存在へと進化していくことでしょう。

たとえば、細胞の状態をリアルタイムで観察し、自動で温度やガスを調整するなど、AIによって自ら判断して環境を整えることが当たり前になるかもしれません。

実は、その中のいくつかはすでに自動培養装置として機能しており、再生医療やバイオ医薬品の生産など最先端の医療現場を支える大きな力となっています。

まるで、ベテランの培養技術者が中に入っているかのように、細胞にとって快適な環境を保ち続けてくれる——そんなスマートなインキュベーターが、近い将来、研究現場のスタンダードになるでしょう。

インキュベーターの進化が、命を育てる現場にどんな変化をもたらすのか。とても楽しみですね。

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この記事を書いた人
株式会社アステックでiPS細胞や動物の胚(受精卵)を使って、「こんなの見たことない!」と言われるような新しい細胞培養システムを日々開発中。博士(学術)と技術士(生物工学)の資格持ちだが、肩書きよりも実験とアイデア勝負が好き。 趣味は自転車、料理、ジョギング。いつか宇宙での細胞培養を目指して、日々の業務では神経細胞を、休日は自転車競技で筋肉細胞を鍛えている研究員。