インキュベーターは、細胞にとって最適な環境そのものといえる存在です。
温度、湿度、CO₂濃度やO₂濃度といった環境が精密に管理され、その安定した空間の中で、細胞は生き、増殖し、細胞固有の増殖・代謝リズムを保ちながら発育していきます。

培養中の神経細胞(培養開始直後)
培養容器に接着した状態。

培養中の神経細胞(培養20時間目)
突起状の構造が形成される。

培養中の神経細胞(培養40時間目)
突起の数が増え長く伸びる。
この安定した環境を支えている、見えないけれど欠かせない存在、それが「電気」です。
インキュベーターを構成するヒーター、ガス制御バルブ、各部センサー、および制御基板は、その駆動を電力供給に完全に依存しています。
したがって、電力は細胞を育てるための環境(培養環境)を安定して維持するうえで不可欠なインフラ基盤と言えます。

インキュベーター内の最適な環境づくりは電気が担っています。

安定した電力供給により細胞は順調に育ちます。
では、もし突然停電が起きてしまったらどうなるのでしょうか?

電気の供給が断たれると最適な環境が崩れてしまいます。

停電が発生すると細胞の成長に重大な影響が生じます。
停電が発生し給電が止まると、インキュベーター内の各環境パラメータは設定されていた値から逸脱し始めます。
以下では、停電が発生した後に内部環境がどのように変化していくのかを時系列で整理し、細胞へのダメージをできるだけ抑えるために必要な備えについて説明します。

停電への対策をしっかりと備えて培養しましょう。

大事な細胞を失う前に停電対策をしっかりと!
停電が起こると、インキュベーターの温度制御、加湿機能、CO₂やN₂といったガス供給やそれに伴う濃度制御はすべて停止します。
それまで人工的に保たれていた環境は、ゆっくりと外気の影響を受け始めます。
細胞は、温度や培地pHといった物理化学的パラメータのわずかな変動に対しても高い感受性を示します。
そのため、人の感覚では「まだ大丈夫そう」と感じる程度の変化であっても、細胞にとっては恒常性(homeostasis)*1を乱すストレス要因となり得ます。

ちょっとの変化なら大丈夫…
いいえ、細胞にとっては一大事です

停電前の順調に増殖している細胞

ストレスを受け恒常性が崩れた細胞
(周縁に球状構造・細胞内に空胞が大量に形成)
特に注意が必要なのが冬季の停電です。
多くの場合、インキュベーターが設置されている培養室には空調設備(暖房)が備えられています。しかし、停電が発生するとインキュベーターだけでなく空調設備も同時に停止するため、特に外気温が低い時期には、庫内温度の低下速度が速くなります。
その結果、短時間の停電であっても、細胞の代謝活性や細胞周期に影響を及ぼすリスクが高まります。
さらに問題となるのは、停電が復旧して庫内温度が37℃に回復した後であっても、その後の細胞増殖能や細胞機能に重大な影響が残る可能性がある点です。
実際に、37℃で培養していたヒト肺線維芽細胞(WI-26)を意図的に25℃で数日間培養し、その後37℃へ温度回復させた研究では、細胞増殖能の低下、細胞死の増加、ならびにDNA損傷の誘導が認められています*2。このことから、低温曝露による障害は温度回復後も持続し、細胞培養に深刻な影響を及ぼし得ると考えられます。
一方、夏季であっても停電時のリスクが低いとは言えません。
外気温が高い季節では、庫内温度の低下は比較的緩やかになりますが、停電により空調設備(冷房)が停止することで、室温そのものが上昇します。さらに近年の地球温暖化の影響により、想定を超えて外気温が高くなった場合には、停電復旧後であってもインキュベーターの庫内温度が低下せず、設定温度に復帰しない危険性が高まります。
特に、空調停止による室温上昇によって、インキュベーターが許容する設置環境温度の上限を超えてしまうと、庫内温度の制御自体が不可能となります。一般的なインキュベーターの多くは加温制御に特化した設計であり、一部の冷却機能を搭載したモデルを除いて降温・冷却機構を備えていません。そのため、停電により空調が停止し、室温が設定温度を超過した場合には、庫内温度を維持したり、設定値へ復帰させたりすることは物理的に不可能となります。
このような状況では、停電が解消しても正常な温度制御を直ちに再開できず、細胞培養環境が長時間にわたって逸脱した状態が続くおそれがあります。インキュベーターに付属する設置可能温度範囲は、事前に必ず確認しておくよう心掛けましょう。

インキュベーターの使用環境温度に気を付けてください。
また、停電時の影響は温度変化だけではありません。CO₂ガスの供給が停止すると、培地中の溶存CO₂が培地の外へ抜け出てしまい(気相への移行)、その結果、培地pHが上昇します(詳細は後述します)。
さらに、低酸素培養のためにN₂ガスを使用している場合、N₂ガス供給の停止により低酸素環境を維持できなくなります。
一方、大量の細胞を培養している条件では、O₂ガス供給が停止することで庫内の酸素が消費され続け、細胞が低酸素あるいは酸欠状態となる可能性もあります。
このように、電源が停止する、すなわち停電が発生するということは、温度・ガス組成・湿度といった培養環境の要素が同時に破綻することを意味します。
これは、培養中の細胞にとって生命維持に必要な環境制御が一斉に失われる事態であり、極めて重大な問題となります。
*1:外部の環境が変化しても、内部の状態を一定の範囲に保とうとする性質。代表的な例としては、生体ならば、気温の変化にかかわらず体温を約37℃に維持することです。
*2:Neutelings T, et al. Effects of mild cold shock (25°C) followed by warming up at 37°C on the cellular stress response. PLoS One. 2013;8(7):e69687.
インキュベーターは大きく分けて2つの構造があり、停電時の挙動には明確な違いがあります。

ウォータージャケット型での温度変化イメージ。
ウォータージャケット式インキュベーターは、庫内(チャンバー)の外側を水(ジャケット水)で囲む構造になっており、この水が熱を蓄える役割を果たしています。水は熱容量が大きいため、電源が落ちた場合でも、しばらくの間は庫内温度の低下を緩やかに抑えることができます。
その結果、停電が発生しても庫内温度は急激には変化しにくく、培養環境の変動を比較的穏やかに保つことが可能です。特に短時間の停電であれば、温度変動を最小限に抑え、細胞への影響を軽減できる点がこのタイプの大きな特長といえます。

ダイレクトヒート型での温度変化イメージ
ダイレクトヒート式インキュベーターは、庫内(チャンバー)の外周部に配置されたヒーターで直接加温し、庫内温度を制御する構造になっています。このタイプは断熱層として空気層を用いており、ウォータージャケット型の水と比べると熱容量が小さい設計であることが多く、電源が落ちると蓄えられた熱がほとんど残りません。そのため、停電が起きると庫内温度は比較的早く低下するのがデメリットとして挙げられます。
この結果、短時間の停電であっても庫内温度が変動しやすく、培養環境の変化が細胞に影響を与える可能性がある点には注意が必要です。一方で、この低熱容量構造にはメリットもあります。
温度制御の応答性が非常に高く、広い温度範囲まで素早く昇温できるため、140~160°Cといった高温域への移行も短時間で行えます。こうした特性は、細胞培養におけるコンタミネーション対策として広く用いられている乾熱滅菌機能を実現するうえで、大きな強みとなっています。
このようにインキュベーターの構造や加温方式の違いによって、停電や電源遮断時に細胞が許容できる温度変動の時間幅には大きな差が生じます。
この点は日常運用では意識されにくいものの、培養環境の安定性や非常時の細胞生存性を左右する、極めて重要なポイントです。
では、ウォータージャケット式とダイレクトヒート式における停電発生後や停電復旧後の庫内の温度変化を比較してみましょう

停電発生後の庫内温度変化の比較。
(グラフはイメージです)

停電復旧後の庫内温度変化の比較。
(グラフはイメージです)
ウォータージャケット式では、水が熱を蓄えているため、停電が起きても庫内温度はすぐには下がらず、変化は比較的ゆっくり進みます。
ただし、その分、電源が復旧してから温度が元に戻るまでにも時間がかかるという特徴があります。
一方、ダイレクトヒート式では蓄えられている熱が少ないため、停電が起きると庫内温度は比較的早く低下します。
しかし、電源が復旧すればヒーターがすぐに再稼働するため、温度は短時間で回復しやすい傾向があります。
このように温度変化の様子が大きく異なりますが、いずれの方式であっても、停電時間が短いほど細胞への影響は小さくなることは言うまでもありません。
停電が発生するとCO₂の供給も停止し、庫内のCO₂濃度は時間とともに徐々に低下していきます。

停電が発生するとCO2ガスの供給が停止するため濃度が下がります。
CO₂は培地中の炭酸−重炭酸緩衝系を介してpHを一定に保つ重要な役割を担っているため、CO₂濃度の低下に伴い、培地のpHは上昇し、アルカリ側へとシフトしていきます。

適切なCO2濃度下では培地pHは7.2~7.4に保たれます。

停電が発生すると溶存CO2が大量に放散し培地pHはアルカリ性に傾きます。
このpH変化(アルカリ化)は、細胞の代謝活性や増殖速度、さらには遺伝子発現パターンにまで影響を及ぼすことが知られています*1。
短時間の変化であっても、細胞種や培養条件によっては、回復に時間を要したり、実験結果の再現性にばらつきを生じさせたりする要因となります。
このようなpH変化は目に見えない形で進行しますが、CO₂濃度が低下した際に培地中で何が起きているのかをpH指示薬(主にフェノールレッド)で可視化すると、その影響は直感的に理解できます。
以下のタイムラプス映像は、5% CO₂インキュベーター内に置いていた培地を大気中(0.04%。実験室環境)へ移したときの様子を撮影したものです。
CO₂濃度が低下したことで、培地中にある溶存CO2の放散が止まらず、培地pHが中性(オレンジ色)からアルカリ性(ピンク色)へ変化しています。
なお、停電時に庫内の状態が気になり扉を開けたくなることもありますが、扉を開放すると温度とCO₂が一気に外へ逃げ、pH変動をさらに加速させてしまいます。基本的には「開けない」ことが、培養環境を守るために適した判断となります。
高い湿度を維持していた庫内の温度が下がると温度ムラが発生することとなり、その結果、内壁や棚、ドア周辺に水滴が生じます。
これが「結露」です。

庫内の温度が下がることで発生した結露。

庫内の温度低下(温度ムラ発生)により結露が発生。

高湿度(=水蒸気量が多い状態)で温度が下がると結露が発生します。
結露は見た目以上に厄介な現象です。
停電が復旧しても庫内の湿度はすぐには安定せず、温度やガス濃度が回復した後も、庫内環境が元に戻るまで時間を要する原因になります。
また、結露によって生じた水滴には埃や微粒子などが付着しやすく、それらが微生物の定着や増殖、拡散を促してしまい、コンタミネーションのリスクを高める可能性があります。
さらに、結露で出来た水滴が庫内底部の加湿水へ落下した場合、微生物が加湿水中で増殖するおそれがあります。
こうした事態を未然に防ぐため、銀イオンなどの抗菌作用を利用して微生物の増殖を抑制する製品を、平常時から継続的に加湿水の中に設置しておくことを推奨します。

銀イオンを活用した抗菌製品の一例。

銀イオンは微生物の増殖を抑えます(イメージ図)。

ゆっくりと放出されるため抗菌効果が持続します。
このように停電は、単なる温度変化にとどまらず、pHの変動や微生物の侵入といった目に見えにくいリスクを増大させる点にも、十分な注意が必要です。
多くの研究現場では、停電という「起こりうるリスク」を前提として、さまざまな対策が講じられています。その代表的なものが、無停電電源装置(UPS)や蓄電池といった非常用電源システムを介した電力供給です。
UPSと蓄電池はいずれも停電対策として用いられますが、その役割には違いがあります。
蓄電池は電気エネルギーを蓄えて放電する装置であり、主に長時間の電力供給を目的としています。
一方、UPSは制御回路やインバータを備え、瞬間的な停電や電圧低下が発生した場合でも、インキュベーターやPCといった機器への電力供給を途切れさせることなく継続することを目的としたシステムです。
このため、UPSは瞬間的な停電(瞬停)に適しており、インキュベーターやPCが即座に停止するのを防ぐ役割を果たします。ただし、UPSに内蔵されているバッテリー容量は限られているため、長時間にわたる電力供給には不向きです。その主な役割は、停電発生後の限られた時間内に蓄電池に切り替えたり、PCやインキュベーターに保存された画像データやログデータを安全に取り出したり、装置を適切な手順でシャットダウンしたりするための時間を確保することにあります。

万一の停電に備えて非常用電源システムを備えましょう。

接続できる電気容量や供給時間に注意してご利用ください。
なお施設によっては、UPSによる一時的な電力供給の間に、蓄電池や非常用発電機といった非常用電源へ自動的に切り替わる運用が採用されている場合もあります。UPSを使用する際には、接続可能な電気容量や電力供給可能時間を把握するとともに、バッテリーの充電状態や劣化状況を日常的に確認しておくことが重要です。
また、施設によっては通常電源(白色)のほか、非常用電源(赤色)や無停電電源(緑色)が設置されている*1ため、用途に応じて適切な電源へ接続してください。

コンセントの色で電源種類が異なる場合があります*1。
このような非常電源システムにインキュベーターの培養環境モニタリング装置を接続しておくことで、停電発生直後から復旧後までの培養環境の変化を連続的に記録することができます。
さらに、ネットワーク接続が可能な環境であれば、データをサーバーへアップロードすることで、遠隔地から停電状況や庫内環境の変化を把握することも可能です。ただし、そのためにはアクセスポイントやルーター、サーバー、さらには基地局といった周辺インフラの電源も確保されている必要があります。
このような環境が整っていれば、温度やCO₂濃度、湿度がどの程度、どの時間帯で変動したのかを後から客観的に評価できるようになります。その結果、停電が細胞に与えた影響の有無を検証できるだけでなく、培養条件の見直しや非常時対策の妥当性を検証するための重要なデータとして活用することができます。

モニタリングでネットワークを利用する場合は周辺の電源事情も考慮してください。
細胞培養ではこのような電源システムを適切に活用することで、停電に伴って生じるさまざまなリスクを最小限に抑えることが重要です。
*1:施設によってはJIS規格の内、「JIS T 1022(病院電気設備の安全基準)」で定められた電源が備えられている場合があります。
どれだけ設備が整っていても、非常時に最終的な判断を下し、行動するのは人です。
そのため、ハード面だけでなく運用の面での備えも欠かせません。
こうした準備やルール付けがあることで、緊急時にも落ち着いて行動でき、結果として細胞へのダメージを最小限に抑えることができます。
突然の停電は、細胞培養にとって非常に大きなリスクとなります。
しかし、機器面での備えと、日頃からの運用体制の整備によって、その影響を大きく減らすことは可能です。
「停電が起きたらどうなるか」を事前にイメージしておくことは、実験の信頼性を守り、細胞の健やかな生育を支える大切な一歩です。
万が一の事態に備え、できるところから少しずつ対策を整えていきましょう。