
細胞培養の現場で長時間稼働するインキュベーターは、37℃という細胞にとって成長に適した温度を維持しており、なおかつ培地が蒸発してしまうことを防ぐために95%以上という高い湿度で安定しています。
じつはこの環境はカビや細菌、酵母といった微生物にとっても心地よい環境になりがちです。

チャンバー内(CH1~9)は37℃で安定しています。
※CH10, 11, 12は室温

庫内は加湿水の自然蒸発により高い湿度が保たれています。
そんな環境下ならではのリスクが「微生物の繁殖」。
培養作業により手指についた汚れや皮脂が庫内の部品に付着すると、そこを中心にカビをはじめとする様々な微生物が繁殖しだす可能性が高まります。
特に加湿水には知らない間に白い浮遊物(=カビ)が浮いていることもあります。

素手で棚板に触れるとカビが繁殖するリスクが高まります。

加湿水は最も微生物が増殖しやすい箇所です。
こうした微生物は棚板や加湿水バットを丁寧に洗浄することで除去できますが、微生物数をより確実にゼロに近づけるためには、滅菌もしくは殺菌処理を実施することが有効です。
滅菌*1により完全にその存在を無くしたり、殺菌*2により限界まで数を減らした微生物が、少しでも繁殖しにくいようにする抗菌*3は非常に重要になります。
なお、インキュベーターは機種によっては乾熱滅菌機能を備えているものもあるため、この機能を用いることで庫内を滅菌することが可能です。ウォータージャケットインキュベーターの場合は乾熱滅菌ができないため、他の手段で滅菌をおこなうこととなります。

乾熱滅菌は非常に高い温度で一定時間処理します。

チャンバー内を高温にすることで全ての微生物の存在を無くます。
また殺菌は70%エタノールや、第4級アンモニウム塩を含む専用の溶液を使用することで、庫内を殺菌することが可能となります。

70%エタノールによる殺菌処理。

7細胞培養専用の殺菌溶液による殺菌処理。

細胞培養専用の殺菌溶液。

殺菌溶液の特徴や有効成分など。
繁殖した微生物が何かの拍子で培地の中に入り込むコンタミネーションが発生すると…
たちまち培地の中が微生物で埋め尽くされてしまい、これまで苦労して育ててきた細胞が全滅することになりかねません。

これまでの培養の成果を一瞬にして失いかねないコンタミ。

コンタミにより大事に培養してきた貴重な細胞を失うこともあります。
そのため、細胞を培養する環境においては、微生物の繁殖を徹底的に抑える必要があります。
そこで近年注目されているのが、銀イオン(Ag⁺)を利用した抗菌剤です。

銀イオンの力で微生物の増殖を抑制する製品の一例。

加湿水の中に銀イオンが溶けだして効果を発揮します。
この記事では、「銀イオンが微生物にどう作用するのか」「抗菌剤はどう選べばいいのか」を、詳しく解説していきます。
*1:すべての微生物(細菌、真菌、芽胞など)やウイルスを完全に死滅させ、増殖や感染力を一切持たない状態にすることを指します。
*2:微生物数を大幅に減らす処理を指します。ただし「どれくらい減らすか」という数値基準は法令では明確に定められていません。
*3:微生物の増殖を抑制する性質や作用を指します。
参照:抗菌・除菌・殺菌・滅菌・無菌の違いって何?
参照:インキュベーター庫内のお手入れ・滅菌編
銀が抗菌性を持つことは古くから知られており、銀食器・銀貨・銀水筒など、人類は経験的に銀の抗菌効果を利用してきました。
その中心となるのが 銀イオン(Ag⁺)のはたらきです。
ここではその作用を、少し詳しくご紹介します。

古代ローマ時代(紀元前2世紀〜紀元7世紀)に使用された銀食器 *1

銀イオンは様々な作用で微生物を死に追いやります。
銀イオンは、微生物の細胞膜や細胞壁を作っている成分(リン脂質や膜タンパク質など)に直接結合し、その構造を不安定にします。
その結果、細胞膜の膜透過性が異常に高まり、最終的に膜に孔が開くことで微生物細胞の細胞内容成分が外部に漏れ出し、細胞内外のイオンバランスが崩れ死滅へと向かわせます。
電子顕微鏡を用いた研究でも、銀イオンの作用により、細胞膜が崩壊しボロボロになっている様子が確認されています*2。
銀イオンは、微生物の細胞内にあるタンパク質(酵素)に結合することで、立体的な構造の変化を誘導し、その機能を失わせる「変性」を引き起こします(主にタンパク質内のSH基への結合とされています)。
特に細胞のエネルギーを作り出す代謝経路(解糖系や酸化的リン酸化を含む呼吸鎖経路など)にあるタンパク質が影響を受けると、エネルギー産生が停止し、微生物の増殖ができなくなってしまいます*3。
まるで工具の形をねじ曲げて使えなくしてしまうようなイメージです。
銀イオンは、DNA(主にグアニンやアデニンといったDNAを構成し二重らせん構造を安定するプリン塩基)に結合し、DNA自体の複製やRNAへの転写を阻害します。
これは微生物の増殖を抑えるうえで非常に重要です。
「増える力」を奪うことで、微生物は繁殖できなくなります。
銀イオンは、細胞内で 活性酸素種(ROS=Reaction Oxygen Species)の生成を促し、酸化ストレスを引き起こします。
本来、活性酸素種は免疫細胞による病原体への攻撃手段として用いられることが多いのですが、過剰な活性酸素種は細胞内の脂質、タンパク質、DNAなどまで参加してしまい、細胞全体に損傷を蓄積させます*5。
最終的にアポトーシスのような細胞自死や、細胞膜破壊による細胞壊死につながることが報告されています。
*1:写真: Wikimedia Commons, “Roman Silverware (28693812726)”, CC 0
*2:Jung WK, et al. Antibacterial activity and mechanism of action of the silver ion in Staphylococcus aureus and Escherichia coli. Appl Environ Microbiol. 2008;74(7):2171-2178.
*3:Wang H, et al. Deciphering molecular mechanism of silver by integrated omic approaches enables enhancing its antimicrobial efficacy in E. coli. PLoS Biol. 2019;17(6):e3000292
*4:Yamanaka M, et al. Bactericidal actions of a silver ion solution on Escherichia coli, studied by energy-filtering transmission electron microscopy and proteomic analysis. Appl Environ Microbiol. 2005 Nov;71(11):7589-93.
*5:Khalifa HO, et al. Silver nanoparticles as next-generation antimicrobial agents: mechanisms, challenges, and innovations against multidrug-resistant bacteria. Front Cell Infect Microbiol. 2025 Aug 14;15:1599113.
ここでよく聞かれる質問があります。
「銀イオンが微生物に効くなら、培養している動物細胞は大丈夫なの?」
実は、動物細胞の内部には銀イオンの効力を和らげる特殊なシステムが備わっています。その代表的なものがグルタチオン(GSH*1)やメタロチオネイン(MT*2)、抗酸化酵素群です。
グルタチオンは細胞内に高濃度で存在している抗酸化物質であり、銀イオンと結合しやすいSH基を持つシステインを含んでいます。
そのため細胞内にある銀イオンはグルタチオンに結合し、その後、銀イオンを結合したグルタチオンは細胞外へ排出されます。こうすることで他の重要なタンパク質やDNAへの攻撃を弱めます*3。
一方、ブドウ球菌をはじめする細菌類にはグルタチオンがほとんど存在しておらず*4、そのため銀イオンによる効果が強く出ることになります(微生物の中にはGSHの代わりにBSHなどのSH基を含む物質を持ちますが、その量や排出機構の違いから、動物細胞よりも銀イオンを蓄積しやすい傾向にあります)。
このため、銀イオンは同じ濃度であれば微生物には効果が高く、動物細胞には影響が無い(または極めて少ない)という性質が見られます。
メタロチオネインは、細胞が金属イオンの量を調整するために使うタンパク質で亜鉛や銅など「必要な金属」を結合して貯蔵したり、逆にカドミウムや水銀など「有害な金属」に結合して毒性を弱める働きがあります。
普段は主に亜鉛イオンを保持していますが、メタロチオネインは 銀イオンと非常に強く結合できる性質を持っています。そのため細胞内に銀イオンが入ってくると、亜鉛よりも銀の方を優先的に結合する「置き換え」が起こり、銀イオンはメタロチオネインに捕まるため毒性を発揮しにくくなります。ただし、メタロチオネインはグルタチオンと異なって細胞外に排出されることは少なく、細胞内に蓄積しやすいという特徴があります。
また、メタロチオネインはタンパク質なので、その設計図となる遺伝子(MT遺伝子)が存在します。動物細胞はこの遺伝子を持っており、銀イオンなどの金属ストレスを受けると、メタロチオネインを大量に作り出して防御を強化できます*5。一方、大腸菌やブドウ球菌など多くの細菌はメタロチオネイン遺伝子を持っていません。そのため、銀イオンが細胞内に入ると防御できず、銀の毒性が直接効きやすいのです。
SOD(スーパーオキシドジムスターゼ。活性酸素を過酸化水素に変換)やCAT(カタラーゼ。過酸化水素を水と酸素に分解)、GPx(グルタチオンパーオキシダーゼ。過酸化水素を無害化)といった抗酸化酵素群は、銀イオンによって生じる活性酸素種(ROS)が持っている毒性を打ち消す働きがあります*6。
これらは細菌を始めとする微生物も持っていますが、その量は動物細胞と比べると圧倒的に少ないため、微生物の方が銀イオンの効果が強く出ることになります。
動物細胞にはこういったメカニズムが備わっているため、銀イオンによる影響を受けることは少ないと考えられています。
*1:Glutathione-SHの略。グルタミン酸・システィン・グリシンの3種類のアミノ酸から構成されるトリペプチド。
*2:Metallothioneinの略。普段は亜鉛イオンを結合しているタンパク質。銀イオンも結合することができる。
*3:Mulley G, et al. Inactivation of the antibacterial and cytotoxic properties of silver ions by biologically relevant compounds. PLoS One. 2014 Apr 11;9(4):e94409.
*4:Newton GL, et al. Detoxification of toxins by bacillithiol in Staphylococcus aureus. Microbiology (Reading). 2012 Apr;158(Pt 4):1117-1126.
*5:Zhang H, et al. Mammalian Cells Exhibit a Range of Sensitivities to Silver Nanoparticles that are Partially Explicable by Variations in Antioxidant Defense and Metallothionein Expression. Small. 2015 Aug;11(31):3797-805.
*6:Wei L, et al.Interaction of silver nanoparticles with antioxidant enzymes. Environ. Sci.: Nano, 2020,7:1507-1517
インキュベーターの中で微生物の繁殖に最も適した場所、それが加湿水です。
気が付いたら白いモヤモヤしたものが浮いていた…そんなことはありませんか?そのモヤモヤは、多くの場合はカビです。

ん?なんだか白いモヤモヤが…

モヤモヤの正体はカビ?

見つけたら触らないでください。
加湿水中にカビなどの微生物が大量に繁殖してしまい、それがインキュベーター庫内の気流に乗ってしまうと…恐ろしいコンタミネーションを引き起こすかもしれません。
そのため、加湿水に微生物が繁殖しないよう、対策をおこなう必要があります。
加湿水中に銀イオンが存在していれば、微生物の繁殖は抑えられ、コンタミネーションが発生するリスクをかなり抑えることができます。
そういった銀イオンは、いわゆる「銀イオン製品」あるいは「銀イオン抗菌剤」などと呼ばれ、様々なメーカーから販売されていますが、銀イオンの放出方法によって効果や持続といった特徴は大きく異なります。
加湿水そのものと反応させることで銀イオンを発生させる方式です。
初期効果は強く、短時間で強い抗菌性能を発揮しますが、一度放出しきると抗菌能力が低下する場合があります。

加湿水と反応して大量の銀イオンを放出する製品例。

反応が収まると銀イオンの放出量は少なくなります。
こういった製品の場合、継続的な抗菌には定期的な交換(製品の補充)が必要です。
銀を不織布の繊維表面に蒸着すると、銀は金属薄膜として固着します。
この不織布を加湿水中に置くと、薄膜から銀イオンがゆっくりと放出されるため長期的に安定した抗菌効果を提供します。

不織布から銀イオンを徐放する製品例。

長期間に渡って銀イオンを放出します。
この種の銀イオン製品のなかには、数か月から半年程度にわたって抗菌活性を安定して維持できるものがあります。そのため交換頻度が少なくて済み、運用面でも効率的です。
加湿水を定期的に入れ替えて同じ製品を繰り返し使用する場合、①の方式では、2回目以降の使用で銀イオンの放出量が徐々に低下することがあります。これに対し、②の方式のように繰り返し使用しても銀イオン濃度がほとんど低下しない製品も存在します。
こうしたタイプは長期間にわたって安定した放出が得られるため、より経済的です。

長期間安定して銀イオンを放出する製品例。

銀を蒸着させた不織布の一例。
また、加湿水は定期的に交換する際に銀イオン製品を繰り返し使用していると、①のような製品では2回目以降の使用で銀イオン濃度が低下することがあります。一方、②の場合は濃度低下がほとんど起こらないものが存在しており、こういった製品を使用することが経済的と言えます。
*1:蒸着(Vapor diposition)とは金属などの材料を真空下で蒸発させ、気体になった金属の原子や分子を、不織布に薄く(数ナノメートル~数マイクロメートル)固定化する技術です。
細胞培養の現場で安心して利用するためには、以下の視点が重要です。
・交換の頻度はどのくらいか
・長期的に安定した抗菌力(銀イオン濃度)があるか

長期間安定して銀イオンを放出する製品例。

製品によっては繰り返しの利用が難しいものもあります。
・細胞に悪影響がないか(細胞毒性がないか)
・揮発性化合物や化学残留物を残さないか
・湿度、温度、CO₂の変化に耐えられるか

マウス胚を用いた評価試験1
(加湿水中への銀イオン徐放製品は問題なかった)

マウス胚を用いた評価試験2
(庫内設置型製品では多くの胚が死滅した)
・しっかりとした使用実績や検証試験のデータがあるか
・特に「細胞培養用途」と明記されているか

カビを用いた試験方法が青色枠に記載された評価試験結果。

酵母を用いた試験方法が青色枠に記載された評価試験結果。
銀イオンは、
・細胞膜の破壊
・タンパク質の変性
・DNA作用
・酸化ストレス誘発
という多面的なメカニズムで微生物を抑制します。
その一方で、培養細胞への影響は比較的少なく、培養環境で安心して使える抗菌手段として魅力があります。
特にインキュベーターでは、即効性より持続性が重要。
そのため、銀蒸着不織布の徐放型抗菌剤など、安定的に銀イオンを供給し続けられるタイプが向いています。
ただし、銀イオンは万能ではなく、定期的な滅菌・殺菌処理や日々のメンテナンスと併用することで、その効果が最大化します。
「銀があるから滅菌・殺菌が不要」ではなく、「滅菌・殺菌・メンテナンスで微生物繁殖のリスクを減らし、銀イオンで防御する」という考え方が理想です。