体内の細胞を体外で育てるためには、インキュベーターが必須です。
インキュベーターは、細胞培養に必要な温度や湿度のほか、CO₂やO₂といったガス濃度を一定範囲に保つための主要装置です。
これらの環境要因が不安定になると、細胞の生存や増殖速度、実験結果に影響が生じるため、インキュベーターの安定性は培養プロセス全体の信頼性を大きく左右します。
参考:インキュベーターとは?
しかし、インキュベーターが正常に動いているように見えても、その中でトラブルが静かに進行していることも。
気づかないうちに細胞がダメージを受け、気づいたときには実験が台無し……ということも決して珍しくありません。
今回は、インキュベーターによくあるトラブルの具体例と、未然に防ぐためのポイントを丁寧に解説します。
トラブル1
pH変動による培地の色変化と細胞死
■ どんな症状?
「昨日までは透明だったのに、培地が黄色くなっている」
「顕微鏡を覗いたら、細胞が剥がれて死んでいた」
こうした変化は、pHの変動によるものかもしれません。
多くの培地にはpH指示薬としてフェノールレッドが含まれており、通常は黄色がかったオレンジ〜ピンク色がかった赤色です。
pHを可視化(見える化)するため
培地にはフェノールレッドが入っています
pHによって培地の色合いが異なります しかし、CO₂濃度が低下するとアルカリ性に傾き、培地は紫色に近い色合いに。
逆に、CO₂が過剰になったり細胞が過密になると酸性になり、黄色みが強く変色します。
参考:インキュベーターのpH調整って何?装置の仕組みを詳しく解説!
下の動画はインキュベーターから取り出した培地の色の変化を示しています。
大気中ではCO2ガス濃度がほぼゼロであるため、培地に溶け込んでいたCO2がどんどん放散(揮発)していきます。その結果、培地のpHがアルカリ性(塩基性)に傾き、紫色に近い色合いへ変化していきます。
培地の pH が適切でない場合、HEK293 などのタンパク質生産用細胞では生存率が大幅に低下する*1だけでなく、がん細胞であっても生存が困難になる*2ことが報告されています。
細胞は適切なpHの下で培養します
培地の成分もpHによって
変化することがあります
*1:Teixeira J, et al. Extracellular acidification induces ROS- and mPTP-mediated death in HEK293 cells. Redox Biol. 2018;15:394-404.
*2:Lee S, et al. Exogenous pH on Cell Growth of Breast Cancer Cells. Int J Mol Sci. 2021;22(18):9910.
■ 原因例
- 細胞の過増殖(オーバーグロース)
細胞は乳酸をはじめとする代謝産物を放出しますが、これらが培地のpHを酸性に傾けてしまいます。 - 微生物汚染(コンタミネーション)
カビや酵母もまた乳酸を分泌しますが、アミノ酸を分解してアンモニアを生成する場合もあります。この場合、pHはどちらかに大きく変動することになります。 - センサーの故障や電池切れキャリブレーション(校正)設定ミス
各種センサー類の経年劣化に伴う性能低下の他、清掃中に誤って消毒用アルコールを吹き付けてしまったり、センサーを変形させたりすると故障につながります。
また、ガルバニ電池式の酸素センサーの場合は、定期的な電池交換が必要となります。 - 表示モニターや制御デバイスのフリーズやアラームの故障
液晶ディスプレイ式を採用しているインキュベーターで起こりうるケースです。現在も活躍しているデジタル表示式ではあまり起こりませんが、液晶ディスプレイ式ではパネル内の時計や各種表示が変化しているか確認することをお勧めします。 - ガス供給不足(供給圧力不足やボンベ切れ、自動切替装置の不具合)
ガスボンベの残圧が異常に低い、または無い場合や、二次圧(レギュレーターの低圧出力側)が低い場合に起こり得ます。培地のpHに関わるのはCO2ガスですが、低酸素環境を構築している場合はN2ガスに注意する必要があります。
過増殖となると培地のpHが
酸性へ傾きます
微生物汚染では代謝物により
pHが急変します
ガス供給圧や残圧にも注意が必要です これらの不具合が重なると、pHの異常に気づかず、細胞がダメージを受けてしまいます。
■ 対策と予防
- 培地の色変化は重要なサイン。見落とさず、こまめにチェックしましょう。
- CO₂濃度や温度の測定器(外部モニターやポータブルアナライザー)を定期的に使って実測値を確認。
- 表示値と実測値のズレがある場合はセンサー類のキャリブレーションを実施。
- デジタル表示に頼りすぎず、「培地の色」「細胞の形」「増殖スピード」に敏感になることが大切です。
ガス濃度の表示値と実測値
ズレが無いことを確認しましょう
ガス濃度の他
温度にも注意(トラブル3) トラブル2
加湿水の蒸発がもたらす湿度低下と細胞への影響
■ どんな症状?
「プレートの端が乾いてきて、細胞が縮んでいる(萎縮している)気がする」
「フタを開けると、容器の中が明らかに乾燥している」
「CO₂の表示値が不安定で、アラームがよく鳴るようになった」
培地の入った35mmディッシュ
あれ?量が減っている…(右側) これらの症状が出ている場合、インキュベーター内の湿度が低下している可能性があります。
■ なぜ湿度が重要?
加湿水の蒸発によって湿度が下がると、それを補うように培地中から水分が奪われる(蒸発する)ため、培地の浸透圧が上昇して細胞にストレスがかかります。
下のグラフにあるように。たった1日加湿水が無いだけで、浸透圧が大幅に上昇してしまうことがすでに分かっています。
浸透圧の変化(1日後)
赤色:加湿水が十分ある状態
青色:加湿水が無い状態
浸透圧の変化(4日後)
赤色:加湿水が十分ある状態
青色:加湿水が無い状態 浸透圧の上昇によって、培養細胞では細胞体積の減少(萎縮)が観察されます。
それに加え、細胞内外のイオンバランスの変化やストレス応答に関連する遺伝子発現の変動、さらには増殖抑制やアポトーシスなど細胞死への誘導*1といった多岐にわたる影響も引き起こされますので、注意が必要です。
参考:インキュベーターに湿度はなぜ必要なのか?
さらに、TC(Thermal Conductivity: サーマルコンダクティビティ, 熱伝導率)式の CO₂ センサーは、ガスの熱伝導率の差を利用して CO₂ 濃度を測定しますが、このときのガス測定に関わっている加熱素子が水蒸気(湿度)の影響を受けやすく*1、湿度が安定しない場合では測定値が乱れることがあります。
その結果、庫内CO2濃度が正常であるにも関わらずインキュベーターは「CO2濃度が低い(または高い)」と誤って認識してしまい、本来は必要でないCO2ガスが供給(または供給されない)されることとなり、培地のpHにも影響を及ぼすこととなります。
*1:Criollo A, et al. Mitochondrial control of cell death induced by hyperosmotic stress. Apoptosis. 2007;12(1):3-18.
■ 原因例
- 加湿水の蒸発
加湿バットに置かれた加湿水は自然に蒸発して庫内の湿度を維持しますが、日が経つにつれて水量は徐々に減少します。 - 異常な結露
庫内に冷えた液体を置いたり、内扉・外扉の締め忘れたりすることにより庫内に温度ムラが発生すると結露し出します。その結果、庫内の湿度が低下して様々な影響が出始めます。 - 推奨される防カビ剤以外のものを加湿水に加えている
加湿水に微生物増殖抑制の目的で界面活性剤や防腐剤(例:SDSやパラベン類)を添加すると、これらが揮発して培地に溶け込むことで、意図しない形で細胞に影響を与える可能性があります。
■ 対策と予防
- 加湿水はできれば毎日の目視確認(温度変化に敏感な培養の場合は必要に応じて)し、週1回を目安に全交換する*1。
- 加湿水に使用する水は蒸留水やRO水、超純水をオートクレーブ滅菌したものが理想。水道水は塩素による影響が懸念されるため推奨されません。
- 微生物増殖を抑制したい場合は専用の防カビ剤*2を使用する。
- 冷えた液体やボトルなどをインキュベーターに入れない。
- 出入り時は内扉・外扉をしっかり閉めること。気密性が保たれないと湿度はすぐに下がります。
オートクレーブ滅菌された加湿水を
ご使用ください
交換前に予温する
微生物増殖抑制には揮発性が無い
銀イオンがおすすめです
*1:加湿水はインキュベーターに入れる前にあらかじめ加温しておくことをおすすめします。常温の場合、庫内の温度に達するまで時間を要するため、その間の湿度低下やCO2濃度変動(TCセンサーの場合)のリスクがあります。
*2:各種毒性試験やMEA(マウス胚を用いた毒性試験)をパスした製品の使用をお勧めします。また、特に銀イオンを長期間に渡って放出することができる製品は、微生物増殖を効果的に抑制します。
トラブル3
温度異常が引き起こす細胞培養への影響
■ どんな症状?
「培地がなんだか少なくなった気がする」
「培地の色が普段とはなんとなく違う(アルカリ性のような気がする)」
「庫内に結露が多く発生している」
「細胞の増殖が悪い・死滅している・機能が落ちている」
このような症状が出た場合、インキュベーターの温度異常が考えられます。
しかし、温度異常はこれまでのトラブルとは異なり、培地の色や量といった見た目ではわかりにくく、見落とされやすいトラブルです。
しかも温度表示系統も同時にトラブル(画面のフリーズなど)が発生していると、気づかない間に深刻な影響が広がることになりますので、決して軽く見てはいけません。
■ なぜ温度が重要?
インキュベーターの庫内は基本的には37℃で一定に保たれています。
これはヒトを始めとする哺乳類の動物の生体内が37℃であること*1が大きな理由ですが、それよりも高かったり、低かったりすると様々な影響が生じます。
- 温度が高い場合
・酵素などのタンパク質の構造が変化(熱変性)が発生し代謝異常が引き起こされる。
・ヒートショックタンパク質(Hspファミリー)が誘導されタンパク分解*2や細胞死*3などが発生する。 - 温度が低い場合
・酵素などのタンパク質の構造が変化(熱変性)が発生し代謝異常が引き起こされる。
・細胞増殖が鈍くなる。 - 庫内の温度分布にムラがある場合
・結露が発生し湿度が低下し、その結果、培地の浸透圧が上昇する。
・浸透圧上昇により細胞の増殖や機能などの低下が誘導される。
このように温度の変化はさまざまな影響を及ぼすため、せっかく順調に培養できていた細胞が一夜にして全滅する、といった最悪の事態に至ることもあります。
特にiPS細胞のような多分化能を持つ幹細胞や胚(受精卵)では、わずかな温度差でも致命的な影響を受けることがある*4*5ため、十分に注意する必要があります。
このように様々な影響が発生するため、せっかく上手に培養できていた細胞が一夜にして全滅する、という最悪な事態にまで発展することがあります。特にiPS細胞といった多分化能を持つ幹細胞や胚(受精卵)の場合では、わずかな温度差が致命的になることもありますので、十分に気を付けなければなりません。
*1:必ずしも37℃というわけではなく、ヒトよりも高い体温を持つウシの細胞では38.5℃で培養されることもあります。
*2:Parag HA, et al. Effect of heat shock on protein degradation in mammalian cells: involvement of the ubiquitin system. EMBO J. 1987;6(1):55-61.
*3:Katschinski DM, at al. Role of tumor necrosis factor alpha in hyperthermia-induced apoptosis of human leukemia cells. Cancer Res. 1999;59(14):3404-3410.
*4:Wang S, et al. Hyperthermia differentially affects specific human stem cells and their differentiated derivatives. Protein Cell. 2022;13(8):615-622.
*5:Sakatani M. Effects of heat stress on bovine preimplantation embryos produced in vitro. J Reprod Dev. 2017;63(4):347-352.
■ 原因例
- 短時間に内扉・外扉の開閉を繰り返す
扉を開けることで庫外の空気が庫内へ入り込みます。このとき、空調が効いているなどで室温が低い場合、それが庫内に流れ込むことで庫内の温度を下げてしまいます。
同時に室内の空気中に漂っているホコリやカビなども一緒に入り込むことで、コンタミへのリスクも高まってしまいます。 - 温度差のあるものを庫内に置く
庫内に冷えた液体を置くと、その周囲の温度が下がります。
逆に温かいもの(例:非働化*1したばかりの血清やオートクレーブ滅菌が終わったばかりの加湿水)を置くと、庫内の温度が上昇します。 - モーター駆動のシェーカーなどの器具を置いている
モーターからはほぼ確実に熱が発生するため、庫内の温度が上昇します。
扉の開閉は最小限に
非働化処理は56℃でおこないます
浮遊細胞培養で使用されるシェーカー
*1:培地に加える血清中に含まれる「補体(細胞に障害を与える可能性があるタンパク質)」を56℃で加熱することで失活させる作業。
■ 対策と予防
- 校正された温度計を用いて定期的に温度チェックをおこなう。
- 内扉・外扉の開閉は必要最低限にし、扉がしっかり閉まったことを必ず確認する。
- 庫内に置くものはできるだけ37℃に予温しておく。
- モーターなどの熱源がある器具は、事前に庫内温度変化を確認してから使用する。
繰り返しになりますが、温度異常は目に見えてはっきりわかるようなトラブルではありません。
そのため、こまめな温度チェックが欠かせません。定期的に実施するよう心がけましょう。
機種によっては内部モニターを出力する
ポート(ジャック)が備わっています。
(青色丸の部分)
庫内の温度はこまめに確認を
トラブル4
乾熱滅菌時の温度管理ミス
■ どんな症状?
「乾熱滅菌後に庫内を開けたら、培養容器が変形していた」
「サンプルを入れたまま加熱してしまい、中身が台無しに」
「なんだか庫内から変なニオイがする」
このようなトラブルは、乾熱滅菌の前に庫内確認を怠ったことで起こりがちです。
参考:インキュベーター庫内のお手入れ・滅菌編
乾熱機能を使用する際、庫内にディッシュなどの培養容器やシェーカーといった実験器具を残したまま加熱してしまうと、高温で変形・変質・発煙といった事故につながり、そこからさらに火事へつながることも十分に考えられます。
■ 原因例
- 乾熱滅菌に入る前のサンプルやプレート、実験器具の取り忘れ
乾熱滅菌の温度で直接発火する可能性は低いものの、溶けたポリスチレンが周囲に悪影響を及ぼす危険があります。
特にシェーカーなどの器具を通電したまま置いている場合、溶けたプラスチックが接触して漏電やショートを引き起こし、火災に発展するリスクが十分に考えられます。
乾熱滅菌中の庫内は
非常に高温となります
庫内には何もない状態で
乾熱滅菌を
フィルターがある場合は
必ず取り外してください
■ 対策と予防
- 乾熱滅菌前に「庫内チェック表」や「警告札」を貼るなど、物理的・視覚的な仕組みで防ぐ。
- 乾熱滅菌機能の操作は必ず担当者を明示し、記録に残す。
- 乾熱滅菌の終了後に正常温度に戻っているか確認してから使用再開すること。
トラブル5
表示異常・アラームが止まらない
■ どんな症状?
「ドアを閉めているのに『ドアオープン』と表示される」
「設定温度に届かず、庫内が冷たいまま」
「ガスの残量はあるのに、警告が出続けている」
こうした表示やアラームの異常は、センサーや電子系統のトラブルのサインかもしれません。
インキュベーターは、精密なセンサーと電子制御により環境を維持していますが、経年劣化や接触不良、ちょっとした操作ミスなどによって表示ミスや誤動作が起こることがあります。
■ 原因例
- センサーの断線や劣化
断線は通常の使用ではほとんど起こりませんが、メーカー規定に反して分解作業を独自におこなってしまうと思いもよらない不具合が発生する場合がありますので、独自の判断で絶対におこなわないでください。
また、センサーには耐用年数が設けられていることもあるため、長期間に渡って使用すると性能が劣化する可能性があります。 - 誤った清掃作業による劣化や腐食
各種センサーに消毒用アルコールや消毒剤、洗剤などを直接吹き付けたり、強い衝撃を与える(ゴシゴシ擦る)と故障する可能性が高まります。 - 内扉・外扉・アクセスポートの密閉不足
シェーカーなどの実験器具を庫内で動作させるために電源ケーブルを導入する場合に、扉やアクセスポートの密閉性を保てない場合に発生する可能性が高まります。
また内扉・外扉にあるパッキンも経年劣化により密閉不足を引き起こすことがありますので、
■ 対策
- 各種センサー周辺の接続状況の確認(分解作業を伴う内部配線の確認は絶対におこなわないでください)。
- 庫内にキズやサビがないか、定期的な外観チェック。
- 不具合が続く場合はメーカーの技術サポートに早めに相談を。
ご不明な点はすぐに
メーカーへご相談ください
不具合や不明点を連携して
解決するメーカーが居ます
その相談が不具合の原因特定と
解決につながります 安定運用のための日常点検チェックリスト
インキュベーターは細胞培養に必須であることは言うまでもありません。
インキュベーターを正しく運用するため、日常的に点検する項目をリスト化し、使用する方々が共同でチェックすることをおすすめします。
下のリストは一例ですので、ご参考にされてください。
| 点検項目 | 頻度 | チェック内容 |
| 庫内温度およびCO₂やO₂濃度の確認 | 毎日 | ・モニター表示値 ・実測値(できれば) |
| 供給ガスの確認 | 毎日 | ・ガス残量(残圧) ・低圧側の供給圧力(二次圧) |
| 加湿水の確認 | 毎日(できれば) | ・加湿水の水位 ・加湿水中での浮遊物の有無 ・防カビ剤の有効期限 |
| 乾熱滅菌の履歴管理 | 毎回 | ・滅菌前の庫内確認 ・実施記録(設定温度・時間など) ・BI*1による滅菌性能の確認 |
| センサーの動作 | 週1 | ・アラームや警告設定 ・キャリブレーション ・フリーズなど表示系統異常の有無 |
| ドアやパッキンの劣化 | 月1 | ・パッキンの緩みガタつき ・コードを挟んだ跡の有無 |
| 庫内の清掃 | 月1 | ・推奨される方法で実施 ・センサーや部材を損傷しない |
*1:Biological Indicatorの略。滅菌工程の効果を評価するために用いられる微生物を封入した試験片です。
おわりに
インキュベーターの不調は、目に見えづらい変化から始まることが多く、油断していると大きなトラブルに発展してしまいます。
特に研究や医療現場では、「細胞が育たなかった」という結果が、時間・資材・信頼の損失に直結します。
だからこそ、ちょっとした異変に気づける目と、日常的な点検・予防が欠かせません。
インキュベーターを「信頼できるパートナー」として活用するために、定期的なメンテナンスと記録の積み重ねをぜひ大切にしてみてください。